五月一九日(木)快晴
四時半に目が覚めると山際が既に明るかった。夜中何度か目が覚めたのだが、冬の初めのような冷え込みで、少々体力を損なう。窓を開けたが眠さが残り、着物を重ねて再び眠った。六時半、空は白んで陽も出ていた。ひんやりと心地よい風を通しながら一時間ほど記録。昨日ふと目に入ってきた、安曇野公園の写真をウェヴ上で見かけ、近場なので行ってみることにする。経路をナビに任せて、山の斜面の道から、諏訪湖とその周囲に広がる町の景色を眺めながら進んだ。適当に掛け流した音楽が季節に妙にしっくりとくる。森山直太朗、矢井田瞳、Maurice Ravel、Debussy。国道二〇号を北へ。長畝という交差点を曲がったところで、道を誤ったのかナビが経路を変更したのか、アナウンスを変更し出した。空いた道に止めて道を確認し、来た道を戻って走り出す。大型の対向車の為に道を空けようと左に寄っている最中、また再びああだこうだとけたたましく鳴る案内に気を取られて、あっと言うまもなく左の車輪が前後とも側溝に落ちてしまった。金属と石の擦れる嫌な音が一鳴り、すぐにブレーキをかけてエンジンを切った。やってしまったな。焦ると余計に事故が大きくなるので、一息ついて外に出て、落ち着いて観察した。燃料は漏れていない、少し焦げたような匂いがあるが大丈夫だろうか。車体の傷は見られない。ひとまず安心。それにしても見事な脱輪だ。側溝と平行に両輪が落ちている。一目でそれと分かる、お手本のような脱輪であった。
車の取扱説明書にも脱輪時の指示はないようなので、携帯で調べた。自力での脱出は検討しない。ということで気になるレッカーのお値段。最初に飛び込んでくる四五,〇〇〇円の文字、ついで三〇,〇〇〇円、二〇,〇〇〇円などとある。近場に業者があればいいが。地図上で検索すると五、六kmのところに一件あるようだった。電話をすると、長いコールの後、忙しそうな声。今日は無理とのこと、しかし、知り合いの業者に電話を回してくれるとのことだった。ありがたい。電話を待つ間、その他の業者にも問い合わせてみる。現場での判断だが、大体二〇,〇〇〇円との返事。その電話の最中に、紹介先から電話が来ていたので掛け直した。場所や車種を告げて、気になるお値段。「二〇,〇〇〇円でという業者があったのですが、お幾ら位でしょうか」と交渉する気も無しに訊いてみたら「いいですよ、一五,〇〇〇円で」と明るい。大変恐縮してお礼を告げ、安全なところで待機した。三〇分ほど経ってふと大通りに行ってみると、ちょうどそのレッカー車が交差点で信号を待っているところだった。現場を見てもらい、交通量が増えているので警察に連絡をし、交通整理の応援をしてもらうことに。下準備に、丈夫そうなロープやフックを取り出して、車体を囲んだり、タイヤのホイールに掛けたりしていた。交通整理の方が到着して挨拶を済ませたら、自分は支払いのために両替に奔走した。付近の道路の工事現場の警備に立っていた方に「近くで両替ができそうなところはないか」と訊いてみたが近くでは思い当たらないとのこと。「失礼なのですが、お札をくずしていただくことはできないでしょうか」と畏まって訊いた。財布を見てくださったが無理だそうだ。少し行ったところにゴルフの練習場があるから訊いてみてはどうかと教えてくださったので、よくよく御礼を言って走っていった。三〇〇mほどのところだ。久しぶりに走っている気がする。坂を上がって建物に入ると、年輩の男性がレジに出てきて、両替に応じて下さった。ありがたい。すぐ横にあった自販機で急いでコーヒーを三本、取り出してみてホットを買っていたことに気づく。焦ると良くない。抱えて作業場所に戻ると、もう車は道路に四つ足を地に着けて堂々たる姿。「車軸が支えていたようなので、走りには問題ない」とのこと。目立った傷も一つもない。空いた道に移動して、首尾良く支払い、「間違えてホットなのですが」とコーヒーを渡すと喜んで下さった。その後は警察の方に免許などを見せてその場で届け出。万一の場合も保険が適用できるとのこと。「カメラマンの方ですか?」「写真家です。」「?」「写真家です。」ホットコーヒーを渡すと喜んで下さった。一件落着。
車で反省会、反省文。今後アイス一〇〇本分我慢すること。間違っても二〇〇本分お得だったからといって食べないこと。何より先ず運転に充分注意を注ぐことだ。このところ運転を片手間に、景色を見たりラジオを操作したりということが重なっていたからこその事故だった。マイナスポイントキャッシュバックだ。しかし命あって何よりで、人や物を巻き込まずに済んで本当に良かったと思う。全く安い授業料だった。自分の不注意で再び事故を起こすことの無いように、習慣を改めよう。良い写真を発信するという目的・成果の為に、車であちこちへ移動するという手段・生産性を用いているのだが、成果ばかり追うと、スピードを出しすぎたり休み無く走り続けたりして手段が危険になっていく。手段を誤って事故を起こしたり病気にかかったりすると、成果まで失われることになる。自分の目的を遂げるためには、安全に活動する習慣と健康に過ごす習慣が欠かせないと感じた。かといって安全のために移動しないというのでは成果は出ず、目的を達成できない。バランスだ。
一一時、国営アルプスあづみの公園に向けて出発。背筋を伸ばして運転。山と水田と果樹園の風景の中を進み、一三時、山の麓に位置する扇状地の公園に着いた。よく整備された駐車場も、列ごとに低くなっていて、棚田のようだった。外にでると太陽に薄雲が掛かって大きな白虹が見えた。昼食。一時間ほど休憩をしてからカメラを二台背負って公園の中央入り口へ。ガイドセンターは立派な木々の間に建ち、植え込みやプランターの花で飾られている。ここにいるだけでもう癒される思いがした。中にはいると床から壁面、机や腰掛けまで一面木造の落ち着いた空間。パンフレットやポスター、液晶の掲示板などが並んでいる。入場券を買って園内へ。木々が立ち並び、歩道の脇は草花で溢れている。川の流れる音や鳥の声が聞こえてくる。すぐ目の前に木造の建物があり、「あづみの学校」とあった。入った正面には、北アルプスと長野県の都市全土に渡る大きなジオラマがあり、山々の位置関係や奥行き、川の流れや登山の道筋を立体的に見ることができた。昔登った山の名前があり、登山道を辿ってみると感慨深い。そしてその奥に大きなガラス張りの窓兼水槽。七×七mほどもあるガラスの向こう遠くには雪の残る北アルプス、常念岳。手前の高い位置には木々が茂っており、そのまま視線を下ろせば川の中まで見渡すことができた。水面から深さ1mほどのところまでが、水槽のように川の水に接しており、たくさんのマスが目の前を泳いでいる。中には白いものや五〇cmを超えるものもいた。様々な体験の施設・教室があり、幼稚園児だろうか、大勢が見学に、土間と囲炉裏のある古式な教室で講演を聴いている。
外に出て森林の間の歩道を散策しながら写真を撮った。清々しいところだ。花の季節は過ぎてか、緑の草が目立ったが、レンゲツツジやニッコウキスゲ、濃い紫色のアヤメが咲いている。川辺では水が激しく流れて涼しげだった。烏川、安曇野の扇状地を形成した、農業にも重要な水源であるそうだ。展望テラスからは扇状地らしい、下りの斜面に続く野原と池とが見られた。吊り橋を渡って森の中を進み、トンネルを過ぎると見事な花畑の丘が現れた。ポピー、ミソハギに似た鈴なりの花、カモミール。色とりどりの花が列をなして一面に美しく咲いていた。これは気合いを入れて撮りたい。ということで、休憩所の屋根の下で一息。二〇分ほど足を休めてから見て回った。芝の緑と空の青に遠く北アルプスの山並みも入れて、花々の赤橙黄緑紫白の混ざる華やかな彩色を収めた。コントラストを限界まで下げて、露光も多くし、光があふれるような花の丘の風景を写真に収めた。太陽も正面にあった。まだ白く円い虹を掛けていた。
一六時半。もう人影は絶えていた。車に戻る。途中見つけた林の中のハンモックに寝そべってみると、想像以上に気持ちが良く、木の葉を眺めながらうとうと。閉館時刻が迫っていたが、のんびりしてしまう。一七時、閉館時刻通りに車に戻り、果物等で補給をして車を走らせた。上高地を抜けて岐阜県高山へ。山道をゆくとみるみる谷が深くなっていき、山と川だけの世界に入っていく。夕日が山の向こうに隠れてひっそりと静かだ。途中路上で鹿を見かけた。長く暗く湿ったトンネルを複数通ってゆくと標高が高くなり、空気が冷たい。上高地を横目に高山方面へ。硫黄泉の香りが漂っている。峠ではまだ桜が咲いていた。鮮やかな薄桃と紫に染まる雲を追いかけながら西へ。月も山の上の澄んだ空で輝き出した。長い下りの道が続くと、どこかで見たような、田園と木造の家の風景。白川郷が思い出される。一九時、坂を下りきると市街地が見えてきて、中心に近づくと区画の整った、清廉な町並みが灯籠の光に浮かび上がっていた。高山町。北山公園に向かう坂を上り、木々の開けた山道の途中で車を止めた。東向きで朝日がよく見えそうだ。二〇時、窓を開け放って夕食の支度。蚊取り線香を吊しておく。外気の中での調理と食事。最高に美味しかった。記録を済ませて眠った。