六月一〇日(金)晴
四時、海の向こうの建物の間に山が見える。その谷間から朝陽が昇ってきた。写真を撮ったらもう一眠り。七時、朝食。九時、大きな橋を渡って、近くの温泉へ。一〇時半から一六時まで、コーヒー屋に籠もって写真の整理と記録。気まぐれに外国語のラジオを聞き流す。
買い物をして移動、広島市街へ。一七時半に到着。まだ明るい。中央公園の芝の丘には二台の自転車、学生が球を投げ合っている。木の下に男女。その脇の歩道を老夫婦が行く。城南通りを渡って太田川の土手に上がる。自転車が一台、木陰に置かれてあった。その向こうの川辺で一人、座り込んでいる若い女性。水際に鷺、対岸のビルの隙間から西日が差す。川沿いを下流に歩くと相生橋が見えて、それを過ぎればすぐ見えてくる。
原爆ドームを直に観るのは二回目で、この日も静かだった。土手を上がってそのすぐ側に立つと、心音が聞こえそうな気がしてくる。太田川に架かるTの字型をした相生橋は、平和記念公園の方へと人々を導くように、三つの中州を繋いでいる。原爆投下の目印となったといわれる橋。
観光客が各国から来ているらしい。立ち止まって静かに視線を上げている人は皆そうだろう。反対に、地元の人々や橋の手すりに集まる雀は慣れたもの、普段の暮らしにあくせくと歩いていく。余所から来た自分達がそうもいかないのは、見上げる虚空で起きたであろう凄まじい爆発と、焼け野原と化したこの土地の様子を想い描いてしまうからだろうか。
人類史上初めて、原爆によって人々の生命が奪われた場所である。我が国の欺瞞のためか。ここ広島と、そして長崎で莫大な犠牲。数十万人。現代にも累々の傷を残している。
以後、核という見えない怪物が、地表を、人々の脳裏を、覆い続けている。
原爆ドームを離れてからそんな思考が流れてきた。抗うも、従うも、声高に叫ぶも無知でいるも、ふっと吹き消される方の一個人だ。ふっとまたこれらの街が、自分を含めて、一瞬で吹き消されるような時が来はしないか。少なくとも可能性はあるから。
後ろにある「平和の鐘」を、鳴らすでもなく眺める。その奥の「原爆の子の像」を眺める。通りを渡って、「原爆死没者慰霊碑」を眺める。真っ直ぐ向こうに原爆ドームを見据えて。とても写真を撮る気にはならない。静かにただ眺める。
閉館後の平和記念資料館の下を通り、大きな噴水、水を、眺めて引き返した。原爆ドームの向こうで日が沈み、五日目の月がそれを追って輝き出す。夕凪が終わったようだ。弱い風が通っていく。ーーー三五万の遺体が、足下の川を、流れていく。ーーー
広島城の側を通ると、団地で何やら事故か。買い出しをして車に戻り、あてもなくぐるぐると海沿いを走った。浜辺に車を止めて食事をして眠った。若者達が海で騒いでいた。