六月二三日(木)曇のち晴
二度寝。都会の夢を見た。三度寝。チャンスを逃す夢を見た。五時起床、駐車場には昨夜同様、車は一台も無し。霧立ち込める曇空の中、あやめヶ原へ散策に。菖蒲の原生花園と広い牧場が一帯を占める、小さな半島である。白樺の林にある木製のゲートから入ると、もう空を遮るものは無かった。鉄線が張られた柵の間の歩道を、海の方へと緩やかに下っていく。所々で瑠璃色の菖蒲の花が露を纏っている。広大な草原を左右に割るようにして、柵に挟まれた一本道が霧の向こうまで続いていた。しかし途中、木製のゲート二つに分断されている。三歩の歩幅程のぬかるんだ土肌の道を挟んで。放牧された馬が左右の牧場を行き来するための、いわば踏切だ。簡単な掛け具を回して胸の高さ程の門を開き、締め直す。もう一方も同じ仕組み。そんな踏切が、道の先にもう一カ所あった。馬の姿は見当たらないが。
複数ある展望台をすたすたと素通りし、海に臨む南端に立つ。崖下に打ち寄せる波が遙か足下で白く散っている以外、海の様子は窺えない。振り向いてみても同様、この日は一面霧に覆われていて見通しが利かないのだが、ここに立ち寄ることは当然のように考えていた。むしろ考えていなくても来たというくらいだ。
ーーー地図の上では取るに足らない、ほんの小さな岬である。しかし辿り着いて見ればそこは陸と海と空が交わる壮大な調和の地、思いも寄らず心打たれことをよく覚えている。地上にいながらまるで空を飛んでいるかのような眺めで、海からの風に背中を押されると、いまにも宙に舞い上がるかと思うほどだった。東に続く海岸線、白く波立つ崖下、滑らかな草原と遮るものの一切無い空。絵画か物語の世界に入り込んだような心持ちでいた。
ーーーいた。まさにいまそのような心持ちで。この「曇りの」南端に立ったからこそ思い出した光景なのだろう、晴れなくて良かったのかもしれない。上書きされてしまうから。そしてこれは、もう一つの目的地だった「霧多布岬」でも同じだった。将来何度訪れても、決して上書きしてしまわないよう、忘れてしまわないよう、心に深く刻みなおそうと想う。かつての旅の煌めくような印象を。
行き着いてから一〇数秒で来た道を戻る。さっきは姿のなかった馬達が、柵の間際で草を食んでいて驚いた。霧の向こうにいたのか、牧舎から放たれたのか。一頭巨大な馬、その肩の高さなど、自分の眼の高さ程あった。ばん馬という種だろうか。近づくと一目見て跳ね離れていった。
七時出発。海を見下ろす草原に沿った道路は、車も少なく快適だった。森を抜けて草原を過ぎ、坂を下ってぐっと海面に近づくと、小さな漁村が瀬に広がる大きな沼、藻散布沼と火散布沼。再び森の間の坂を上ると、不意に狐が歩道に飛び出してきた。逃げるかと思いきや、こちらの車を見て追ってくる。人に慣れてしまった個体だろう。車で通りかかった旅行客などから餌をもらった筈だ。それともあの漁村でだろうか。ちょっと遊んでいこう。
車を止めて、ナッツの袋を取り出した。選り好みの末、避け初めていたカシューナッツを道路に向かって食べこぼす。オーガニックの素焼きだから害は無いだろう。放った食べこぼしに、警戒しながらも寄って来て食む。カメラを窓の縁に添えて片手で撮る。食べこぼしては撮る。撮ってばかりで待たせていると、まるで飼い犬そっくりの振る舞いをするのだった。お座りに伏せ、眠そうに目を閉じてあくび、身体をぶるりと振るう。心なしか痩せているのは狩りを止めたからだろうか。別の車が来ると一度茂みに隠れて道路を覗いていた。いずれ飛び出して轢かれるか、村にエキノコックスや荒らしの害を与えるようになって駆除されるか。自分もやや後ろ暗い思いで食べこぼしていた。野生に戻れるかどうかは分からない。撮り尽くしてもまだ餌を求めているようではあった。近くにおびき寄せて急にエンジンを掛け、驚かせる。それでもしばらくすると茂みから顔を出してくるので、車を降りて森の奥へと追い払っておく。焼け石に水だろうがこれ以上は身に余るので、身勝手ながら立ち去った。食べこぼしなど当てにせず、くれぐれも自分で働いて暮らせよ。
森を抜けると北側に低地が広がり始める。そして「琵琶瀬展望台」に到着。ここも印象深い場所だ。海際の高台の展望台から、内陸の一〇km先まで広がる広大な湿地、「霧多布湿原」を一望する絶景。だが曇りである。展望台の階段を上って霧を一瞥、遙か彼方まで、大気に霞んでしまうくらい遠く広がっているはずの葦と菅の原、瑞々しい水脈を思い起こす。かつての自分が立った位置、自転車を止めた所、履いていた自転車用の靴の歩きにくさなどを思い起こす。直ぐに車に戻った。
その先は街に差し掛かる下り坂。下り切ると湿原沿いを、海を眺めながら進む。霧多布岬へ続く島はどれだったろうか。霧でよく見えない。県道をそのまま走り、導かれるように橋を渡ればもう浜中町。記憶を辿って岬を目指す。自転車で走ったときには「ひっくり返るのではないか」と思ったような急な上り坂も、車で来てみれば全く大した勾配ではなかった。記憶はどうも当てにならないが、それでこそ、厚かましくも生きてゆけるのだろうからいい。坂を上り切って、東の岬へ続く長い草原の間の道を行く。馬が数頭。南西側は小さな漁港を囲む、斜面に広がる小さな集落。小さなキャンプ場のバンガローが見えてきたら間もなく、霧多布展望台の駐車場。ひと気のない曇り空の下、車を止めて降り立った。丈の低い草の茂った煉瓦の道を歩く。東屋と、水道と、ガラス張りの平屋、屋根の上は展望台。そしてそれらの奥の、海を望む展望場に立つ。風が強く、崖下の波は荒々しい。更に先に続く階段を降りると、かもめの集まる細い岩が、海から突き出している。ずいぶん寒そうなところにいるものだ。そして遠くに真一文字の水平線。昨夕、入り日の頃にはそこから十六夜の月が出てきたことだろう。
ーーー初めてこの地に辿り着いたとき、この闇夜の海上に青々と月が昇って、入り江の波を美しく照らしていた。それまでの極大の暗闇の恐ろしさが、ただでさえ見事だったその光景の美しさを増幅し、消え難い印象を残した。ーーー
その記憶があったから、ここで一晩過ごしたいと思ったのだったが、今日、ここで夜を明かさなくて良かったと思う。晴れなくて良かったのだと思う。どこにいてもいつだって思い出せるような恐ろしさと美しさだったから。そして実際ここにまた来てみても、何の感慨も無かった。未来への希望は記憶以上に当てにならない。来たいと願っておりながら来てみれば何の感慨もなく、「晴れなくて良かった」などと言い出す始末である。昨日のあいつはどうかしていたのか。さっきのあやめヶ原のあいつは何を言っていたんだ。まったく厚かましい訳だ。
平屋の屋上に続いている階段と手すりが、風を切って音を出している。和音だ。背中で手すりを邪魔してみると一つ止んだがまだ聞こえてきた。車に戻って朝食。食べ終えたころ、一羽のかもめが歩いてきた。これも人慣れした個体だろう。遠くでこちらを伺っている烏どもとは訳が違う。今度は残りの食パンを手に、食べこぼしを始めた。あの狐ほど警戒心はなく、二mくらいの所までは近づいて、こちらが食べこぼしたパンを食む。ときどき足下の水溜まりにくちばしを横たえて水を飲む。投げた食べこぼしをライナーでキャッチしたり、鋭い食べこぼし内野安打をショートバウンドでキャッチしたり、三mの距離からモーションもなしに中指で打ち出した弾丸を、見事にくちばしで捕らえたりするなど、鳥類の運動器官の素晴らしさを目の当たりにするのだった。ちょうどメジャーリーグで安打数の世界記録を打ち立てたばかりのイチロー選手も、これには感嘆の声を上げることであろう。それも何より、この的確なノックがあってこそだ。食べこぼし名コーチだ。取りこぼしてよたよたと歩いて取りに行く姿には、厳しくも愛の籠もった檄をとばす。偉大なる名内野手に育つことであろう。
水溜まりに移り込んだ姿を合わせて写真に。撮り尽くしたころ、遠くで物欲しそうに眺めていた烏が仲間を呼びだした。(「餌」の鳴き方は、「敵」の鳴き声よりも長い。他にも五種類ほどの言葉を持っているらしい。)二羽の烏がにじり寄る。いよいよ同じ地平に降りたって、食べこぼしの食べこぼしにでもありつこうと、いや、名コーチのご指導に預かろうとかもめに迫ると、その白い一羽は堂々たるもの、動じることなくひと羽ばたきと一睨みで黒い二羽を追い返していた。そして練習の続きに励むのであった。その後烏達の姿は見なかった。
放っておいても害も事故死も無いだろうが、車を降りて少し追いかけておどかしておく。最後に一欠片、パンを丸めて仕上げの遠投食べこぼし。一〇時半、街の防災無線から流れてくる訓練放送を聞きながら出発。思い出の地を後にした。
南の海辺の漁村を見下ろしながら進む。来た道からそれて温泉施設を過ぎ、牧場の間を通ると牛達が草を食みながらこちらを見ていた。南西の端にあるアゼチ岬に立ち寄ったが、駐車場から写真を撮る程度。「ハナミズキ」という映画にも登場した場所だという立て札があった。そういえばジブリの「思い出のマーニー」の舞台も霧多布をモデルにしたらしいと聞いた。確かに湿原や入り江の風景などはよく似ているように思う。(なんの縁か、その映画を観た次の日に、釧路からここまで走り始めたのだった。帰って何故かまた観に行った。)高台を下った勢いのまま橋を渡って本土に戻り、真っ平らな湿原沿いの道を進んだ。「シカ注意」の四文字がこれでもかという大きさで地面に書かれていた。
東へ。上り、下りに平地を交え、山、川、海辺と過ぎてゆく。本国最東端、全世界の極東へ。その道のりは、どこかせき立てられるような想いがする。開拓時代の面影から、いよいよ「最果て」といった思いがするのだ。ほんの数世紀前には、畑も牧地も道すらも無かったであろうこの極寒の地。季節と文明と開拓民の努力をゆりかごにして辛うじて旅をする自分。そんな思いの中、「奔幌戸」の地名看板。ローマ字の振り仮名は「Ponporoto」だ。重ね重ね申し上げるが、これは面白過ぎはしないだろうか。先日の「ポロトコタン」発見の際、「北海道面白地名ランキング」を製作し始めて苦節三年という大カミングアウトをしたのだが、この「奔幌戸」は、まさしくそのはしりとなった由緒ある土地、いわば聖地である。ちょっと通り過ぎてしまったが戻って撮った。今日も今日とてぽんぽろと、猛ダッシュで通過。名前以外には特に思い入れは無い。「下北沢」や「吉祥寺」と一緒だ。名前ばかりで思い入れは無い。
太平洋沿いから北へ、谷を越えると単線の粗末な駅舎が熊笹の藪の奥に見える。初田牛駅。その線路沿いの林の間を更に東へ。落石駅からは北上、小学校や役場、消防施設など。そして例の砂利石の綺麗に並んだ空き地が多く見られる。小学校の名前まで昆布小学校だ。続く駅は昆布盛駅、ここから先は根室半島と言って良いだろう。森を抜ければ広がる広大な平原。農地、牛舎、サイロ、牧草のロール。燃料が街までもつか際どい。すっ飛ばしていく。街並みが向こうの斜面に見えだして、差し掛かった下り坂をさらにすっ飛ばしていく。高台の根室市街へと勢い付いたところにパトカー。即借りてきた猫運転。おとなしいこと地蔵のごとし。地蔵運転。ゆっくりと坂を上ったところに丁度よくガソリンスタンドを見つけた。
給油を済ませたら市街を抜け、南の海沿いに岬を目指す。人家が極端に少なくなってゆく。電信柱の方が目立つほどの集落を過ぎてしまえば、あとはもう電信柱だけが連なっていた。薄い黄緑の草原の向こうまで。
ふと道端に狐が現れたりする。半分になった哀れな姿で。大抵それを、烏が高いところから見つめている。あたりが静かになったら乗りかかり、食うのだ。狐は外敵に遭遇した時、気配を極限まで消すようにと全身の動きを止めてしまうのだそうだ。鼠などの小動物の他、不安に苛まれた主体性の無い人間にもよく見られる反応である。運転には十分に気をつけよう。そんな草原をひた走り、数軒の漁師小屋が見え出す、遠くに風力発電の風車、更に遠くに白く真っ直ぐそびえ立つ塔も見え始める。いよいよだ。東端に近づくといくつかの土産物屋や駐在所、漁師の組合か何かの施設が見えてくる。それらの間を抜けて波際まで出、少しの砂利道を通って辿り着いたのが「納沙布岬灯台」。小さな駐車場に五台ほど車が止まっていただろうか、場所に似合わず少々賑やかだ。僅かに空いたスペースに車を止めて外へ出た。正面には三階立てほどの小さな白い灯台、その両脇に細く芝の道があり、その脇の柵の向こうには岩場に降りかかる波飛沫が見える。
この灯台の裏には背中合わせで野鳥の観察小屋があった。白塗りの柱や角材に、ベニヤの壁やアクリルの窓の引き戸を合わせた木製の簡素な小屋で、三畳ほどのスペースに、テーブルとベンチがある。内側の壁面には、ここで観察できる鳥の写真や種類についての説明の張り紙、「野鳥観察ノート」と題されたノート、旅人達の寄せ書きで埋まったホワイトボードやコルクボード。「かえせ!」の文字が目立つが、あまり差し迫った感じのしない文字だ。北方領土については、ここに来ればどうしても意識に上ってくる。海の向こうすぐのところに見える距離だ。返還を願う石碑も看板も横断幕も数多くある。さっきの砂利道にも石碑があり、その周囲に大量の「蛙」の石像が置かれている。「返る」を文字って「蛙」の石像ですよ。いかに差し迫った感じがしないかがよく伝わると思うのですが。道すがら「返せ!北方領土」の看板もよく見かけるんですけど、その文字の下には笑顔のアザラシのイラストですよ。
敵対心によって返還が果たされることはないと思うが、このゆるさで返ってくるのだろうか。
観音開きを水平方向にしたような木の板の窓を開くと、東の海の水平線とそこを舞うかもめの姿が見られた。小屋を出て岬の先端で見上げる。北から南へ、数匹の集団ごとに断続的に飛んでいく。カメラで海を水平に捉えながら、左から飛んでくるかもめを狙う。コートを着込んでも寒いくらいの海風の中じっと待っていると、指先や脚が冷えに冷えた。初めて連写を使った程急いた。
少し移動、来る途中にも遠くから見えていた白い塔「オーロラタワー」の駐車場には、だらけきったかもめが数匹地べたに横になっており、近づいても起き上がらない。まったく近頃のかもめは。これだから北方領土も返還されないのだ!望郷の岬公園の広い駐車場に止め直し、周囲を散策する。まず目に入るのは、錆び切った大きなモニュメントだ。巨大かついびつな鉄の立体が四つ繋がって、歩道橋のように四角形の三辺をなしている。その下は大型トラックでも通れそうな広さの空洞。背の高さ程もある鉄の箱が中央に置かれており、火が海からの強風に負けず燃え盛っている。北方四島を表す立体が支え合う、返還を願うモニュメントだという。錆びきった色といい大きさといい、何とも印象に残るものだ。かつてこの真横で野営したことを抜きにしても。海沿いの柵に沿って、その他にも複数の石碑や、鐘、全国の都道府県から送られたその土地土地の石を敷き詰めたもの、書簡箱か募金箱か分からないものが並ぶ。海にせり出した踊り場の地面には、根室市と北方四島の位置関係や、初日の出の方向等の書かれた大きな地図。そして隅に「本土最東端 納沙布岬」の文字の刻まれた石柱、高さ三mを越えるだろうか。振り返ると「北方館」という資料館があるのだが、この建物の屋根のあたりにライブカメラが設置されている。端末で検索してみればいつでもその映像を見ることができるのだが、今まさに自分の姿が映っているのを見るとなんとも不思議な感覚になる。流氷の頃など、その氷の迫る様子も見られるだろう。
本土最東端到達の感慨もさておき、土産屋を流し見て昼食の調理。玄米を炊く間に野菜を切り、余っているカシューナッツを袋の中で砕く。カレーを作るのだ。しかし、下拵えが済んでもなかなか米が炊けなかった。開けた窓から絶えず冷たい風が入っていた為か、鍋が冷えてあまり蒸気が飛ばなかった。これが昨夜の「低温注意報」の意味するところだったのか!いつもの倍ほど時間が掛かって出来上がると、「びっくり炊き」と呼ばれる水分を多く吸収した炊き上がりになった。普段より柔らかくて量が多い。蒸らしている間にカレーを作ってようやく昼食。量が多かったが美味しく出来た。
一五時半、休憩。ここまでの道のりを振り返って目を閉じる。最東端の地。一つの区切りになることだろう。最南端の佐田岬が思い出される。歯を磨きながら水場へ。社会科見学の小学生達とすれ違う。ひと学年の全員でも二〇名ほどなのか。
一六時出発。西への道はただただ広大な草原が続くばかりだった。いつまでもあのオーロラタワーと風車が遠くに見えている。大気の厚みで白く霞む程遠くまで、何も無いのだ。風が好き放題に吹いて過ぎてゆく。西の地平線に近づき始めた太陽も光を穏やかに、橙色を混ぜ始めている。写真を撮りに出てみたが、この広さと風の自由さを、伝達するすべなどあるのだろうか。入り日に輝く海沿いを走りに走り、風蓮湖を過ぎて内陸を行く。別海町を通り抜け、真っ直ぐ中標津町に向かい、街中の大きな駐車場に止まる。一八時。本屋に立ち寄った後は記録を三時間。二二時、食料の買い出し。外に出ると驚くほど寒く、吐く息は白く、車の窓に霜が降りるのではないかというほどだった。ここまでとは驚いた。(低温注意報についてはもう忘れていた。主に農作物への被害をいうのだろう。)
夕食。二三時、暗闇のなか車を走らせて開陽台に移動。町外れの山の上にある展望台ということだ。人通りの絶えた市街地を過ぎ、林道の坂を上って山に入る。細い道の端の方に引かれた白線を頼りに進んだ。到着した広い駐車場にはひと気もなく、霧の中で自販機の光が目立っていた。見事な星空が見られる場所と評判だが、この日は曇空だった。