六月二五日(土)曇のち雨、強風
朝方何度か目を覚ます度に、曇空を見て安心して、否、残念ではあるが二度寝、三度寝を。北海道に来てから晴れ渡る日の出の景色は目にしておらず、襟裳岬の他お寝坊が多発している。(明日もである。)もう随分明るくなった六時半、ダウンの上着にサンダルのまま散策に出た。昨夜は全く気づかなかったのだが、駐車場の後ろは広大な牧草地になっており、白黒斑の牛が数頭、すぐ近くで腹這いになっている。随分広い駐車場には、バイクと乗用車が一台ずつやって来た他は人の姿もなく、相変わらずひっそりとしていた。海側正面、大きく目立つ能取岬灯台。初めて見る八角錐台の形状に、太い二本の黒い横縞。視界に映る建物はそれだけで、あとは鮮やかな黄緑の草原と霧深い白い空。全く簡素でありながら、実に印象的な風景だった。網走で誓ったはずが、すぐ隣の能取岬で脇道に逸れた人生を歩んでしまいそうな程に印象深い灯台の模様。…邪。よこしま。YOKOSHIMA。オチを自ら説明してしまうというそれこそ大きな過ちにも絶え絶え、散策。
朝露に濡れた草原を歩くうちに足が濡れていく。海際は崖になっており、海面から高さ一〇mといったところだろうか、木製の柵がその崖沿い左右に続いていた。広い草原を南に進むと、何やら背の高い塔が見えてくる。漁師の出で立ちに漁網を持った姿の男性の像、その上方高いところに鮭の像。漁師の足下の台座が自分の頭の高さ程あり、鮭はその漁師の頭頂部から一m以上高い所に据えられていた。塔の根元には題字、「オホーツクの塔」とある。開拓一〇〇余年、先人の業績を讃え、その御霊を慰労し、今後のこの地の水産発展を願って建立されたものだという。夏でもダウンを着るような気温だ。冬の厳しさや、風に荒れる海へと漁に出る苦労は、今の自分の想像を超えたものに違いない。
八時出発。昨夜来た道は、丘へ向かっていた。能取湖を回り込むように西へ。狐がまた一匹車を追うそぶりを見せた。取り合わずサロマ湖の東端へ。原生花園が海岸沿いに広がり、立派な木造の観光施設もあった。自転車を借りて、広い花園を周遊するというのが定番のようだ。曇空の下、浜辺に出る。花はさておき貝拾い。稚貝の殻や珊瑚の細く小さな枝のようなもの、乾いた海草などが打ち上げられている。拾い終えて車に戻る途中、雨が降り出して、一〇時に出発すると大降りになった。給油をし、次の街へ。紋別に向かう。とあるそば屋で、珍しく外食をする予定だ。見覚えのある道を進む。九〇分程走ると住宅街が広がり出して、国道沿いの商店の間に挟まれた「そば屋 勝山南店」に到着。雨の中、暖簾をくぐって引き戸を開けた。
昔この地を旅した際、旅の最後の日に出会った旅人が連れてきてくれた店だった。ご馳走にまでなった。その日以来、連絡が取れなくなっている。あの時、食後に飲んでおられた薬の量から察すると、別れてしばらくのうちに、、、と、実感の伴わない覚悟が、あった。この日本一周の途中、お住まいのあるという京都に立ち寄った際に、改めて連絡をしてみたが繋がらなかった。
店内に入るとお客はまだ数名、カウンターの席に案内されたが、座敷でも良いかと尋ねると快い返事。奥の壁高いところにテレビあった。懐かしい、あの夏は丁度、高校野球の甲子園の放送が流れていた。この座敷に向かい合って座り、名刺を交換して初めて互いの名を知ったのだった。あの時勧められてご馳走になった、カツそば大盛りを注文して待つ。お昼時とあって、続々お客がやってくるのだった。味は良く覚えている。滅多に外食をしないこともあったからか。一〇分ほど待って出てきたカツそばは、その記憶を上回るような美味しさだった。あの旅人との、全く奇跡のような、しかし当然のようでもあった出会いの様を思い出しながら食事をした。素直に美味しかった。
店を出て車に戻り、雨の駐車場でぼんやりと二時間ほど過ごした。
一四時出発。再び九〇分ほど掛けて次の街へ走ってゆく。豊かな緑の草原の間を清流が伝って、遠く海の方まで延びている。そんな雨の風景を過ぎて辿り着く興部町。「おこっぺ」町。面白過ぎではないだろうか。そしてこの町にもう一軒、思いでのお店があった。記憶を頼りに交差点を曲がって広い通りへ。丁度その道沿いにあった。「菓子屋平田」。老舗の菓子屋で、ガラスのはまった格子の引き戸をがらがらと開けると、奥の居間からお爺さんのご主人が出てくるだろうか、いや、この日は女将さんのようだ。簾の向こうから「はーい、いらっしゃいませー」と声があがり、ケーキ屋のショーケースと同じ、ガラスの棚の向かいに立つお婆さんの女将さん。棚の中には様々なお菓子が並んでいた。どらやきなどの和菓子や、フロランタンなどの洋菓子、生どら焼きなどの折衷のものなど。「すごい雨ですねえ」「はい急に」などと話しながら、お菓子を選ぶ。ここもあの人に連れられて訪れたところ。あの菓子の名前は何だったかなと思いながら探すと目に入り、急に思い出す。そうだ「牛乳の里」だった。アルミのフォイルに包まれたケーキ生地に、白あんに近いような優しい甘さのあんが入っている。他にもどら焼きなどを選んだ。
紙袋に入れられたお菓子を受け取り、温かい御礼の言葉を背に店を後にした。近くの道の駅に車を止め、廃線になった旧い鉄道に関する資料館を通って、その奥の物産店へ。特産品の牛乳が売られている。ここも思い出の店だ。地元産の牛乳を一本購入し、車に戻っておやつの時間にした。成分表を見て買う習慣があるのだが、ガラスケースの中ではそうはいかない。紙袋を開けて見てみると、さすがは老舗の専門店。工業的に精製されたような材料は入っていなかった。そこらのコンビニやスーパーマーケットではこんな品物はまず手に入らない。しかもそれほど値の張るものでもないのだった。自然なものと分かっていると、安心して食べられる。そしてその気持ちの違いを差し引いても美味しかった。すっきりとして、口に油の味が残らない、本物の味だった。牛乳もまた格別。美食の趣味はない。ただ身体が、自然な物を欲するのがようやく分かるようになってきた。やたらとこだわったラーメンよりも、水の良い土地の物でできたうどんの方が好きだ。名前を読んでも何が使われているかも分からないような薬品まみれの既製品よりは、手間を掛けて自炊をし、お金を掛けて良い物を口にしたいと思う。それは当たり前のことだと思う。子を生した人であれば、痛いほど分かるだろう。そんなことを、たかがお菓子ではあったのだが想い入れも手伝って再認識出来た。
水を汲んでいく。容器を持って広場で水道を探すと、なぜか立派なシンクのついた炊事場があった。そしてその隣には電車の客車が二両、短い線路の上に止められていた。駅のホームを模したような歩道に上がって見てみると、一両は椅子と机の並んだ車両で、天井の古めかしい扇風機が一台稼働している所に、濡れた靴が掛けられている。扇風機の首振りに合わせて、紐靴もぐるぐると回る。そしてもう一方の車両を囲むように、スポーツバイクが六~七台止められている。車両の中では若者たちと御老公方が語らっていた。看板を見ると、使われなくなった列車の車両を、ユースホステルや語り場として解放しているというのだった。これは旅人には何よりも嬉しい施設だ。隣の資料館に申し出るか、時間外にはノートに記帳するだけで宿泊出来るらしく、車両前後の列車の扉は自由に開けられるようになっていた。一段高くなった床に寝袋やマットを広げ、笑顔で語らう男達。窓の外からその一人と会釈を交わした。色々と訊きたいところだが、今は車の旅。また自転車で来ることがあれば、是非立ち寄ろう。
いよいよ本土最北端へ向かう。ここから先は初めて踏み入る場所だ。相変わらずの曇り空の下、海岸線に延々と続く殺風景な道路をひた走った。海、雲、草原。この先にまだ街があるのかと不安になるような風景が数時間続く。あまりに景色の変化がないものだから、英語のラジオなど流しながら走った。雨雲も雲間も追い越して北上。だんだんと辺りが暗くなっていく中、強い雨に見舞われながら宗谷丘陵のなだらかな上り下りの道で、必死に地元の車を追う。鳥達が風に煽られて車とぶつかるほどの距離に飛んでくる。実際に轢かれたものもあった。なむなむ。
建物がいくつか現れ出す。岬に近づくと漁船の並ぶ港や、漁村の住宅が連なって見え始める。街中に宗谷岬神社の祭りの幟がいくつも掲げられている。土産物屋の間を過ぎると見えてきた宗谷岬。一九時、広い駐車場に入って、車を止めた。何人かの観光客が、荒れ狂うような風の中、岬のモニュメントの前で写真を撮り、車に掛け戻っていた。
外に出る気にはならなかった。少し燃え尽きたようになって、車の中でだらけていた。南の果てより辿り終えたこの島国の本土ひと撫で。こんな距離を歩いたというのか。車で走ってみてもまるで想像が付かない。
それにしてもものすごい風で、風上に車を向けてもがたがたと揺れ続ける上、何かにぶつかった風の裂ける音が終始止まなかった。建物の陰に車を移して眠る。