四月八日(金)曇
五時。目覚ましより一時間早く目が覚めた。外が明るくなって来たからか。コートを着、カメラを持って外へ。海上に出たばかりの朝日を撮る。どこに行っても朝がくる。こんなに走っていても逃げ切らない。
車に戻って朝食。ご飯と魚の缶詰と御漬け物。この旅で初めて動物性タンパク質を摂る。ガスを変えると火力が上がって、米がすぐに炊きあがった。うまく炊けたようだ。豪華でなくともありがたく、美味しい朝食だった。水を使い切った。
九時までこの記録を進め、その後伝承鎮魂祈念館に入る。この地も五年前には波に飲まれ、甚大な被害があったということが、わずかながら実感できた。展示された被災時の写真に、通りがかりに見てきたものと同じ建物が写っている。浜辺から陸へ数百m先のところまで波が押し寄せて、家屋をさらったという。当時の新聞記事や被災前の写真等が並んでいた。中には、持ち主不明の白黒写真やカラーの写真などが置かれているところもあった。ここに写っている方々は御存命であろうか。人というのは地表にしがみついてやっと生き延びているような面もある。
九時半、仙台方面に向けて走り出す。水、食料、読書の時間を確保しよう。一時間で宮城県に入った。名取市で休憩。水を補給し、十一時、本を持ってコーヒー屋へ。三時間ほど読書し、食料の買い出しをして車に戻った。果物、野菜、大豆製品、穀物、乳製品。昼食。
十六時、石巻方面へ出発。途中、郵便局に立ち寄って、小包を発送した。百四十円で関東まで運んでくれるのか。自分はここまで百四十円ではたどり着けそうにない。そういえば松島を通ると、看板に松島の文字があらわれてから気づいた。三大名勝。日の入りが迫っていて少し急いだ。だんだんと景色に松の木が多くなってくる。松島海岸の駅前に着く手前で、「展望台・双観山」と書かれた肉筆の看板を見つけ、そちらに進んだ。観光地としての松島はもう少し先なのだろうが、「展望台」と書かれるとだいたい釣られて行ってしまう。松林を抜けて、入り江の水辺の近くを通り、最後に急な登りの坂を上がって、道の途中に車を止めた。少し坂を上がった林の中に東屋が見えた。振り返ると夕日も見える。カメラを二台持っていく。
木々の間を抜けると、静かに青くなっていく海と、松を湛えて浮かぶいくつもの島が見えた。なんとも言えずよい景色だ。松尾芭蕉のものとされる句が思い浮かぶ。静かで良い。
「双観」というのは、「松島湾と塩釜湾の双方を観る」ということらしい。まだ光があるうちにもう少し進もうと、車に戻った。途中また二度ほど車を止め、海岸線の歩道から、内湾の景色を撮って進んだ。美しい女性が、歩きで山を越えてきた。同じ景色に向かってカメラを向けていた。「歩きなのか?」と不思議だったが、撮影を続けているうちにいなくなっていた。
松島海岸駅前の観光向けに整備された施設や通りを過ぎる頃には、すっかり日も暮れて暗くなっていた。そこからは、翌朝の日の出を観るのに適した場所を探しながら走った。地図載っている海辺の公園や運動場を目指して走ったのだが、行ってみると何もなかったり、工事中になっていたりして、それでようやく、津波の被害の大きさを知ったのだった。運動場すらなくなってしまうのか。
猫やたぬきが道を走って横切っていく。星がよく見えた。人家の壁に、「過去の津波の高さ、ここまで 一.七m」と書かれた看板が張られていた。これほどの広さの土地をそんな量の水が満たすなどということが、どうも想像しがたい。
航空自衛隊の基地を過ぎ、海岸沿いを進む。海に長く延びる防波堤を見つけて、その近くに車を止めた。ここで朝を待って、朝陽を撮ろう。二十時半。夕食。