四月一六日(土)晴
六時、移動して朝食。記録と読書の後、八時半、山形県に向けて出発。いつも通りに海沿いを走ろう。西に向かう緩やかな坂道を上りきると、南向きに曲がっていった。その上った丘の上から遙か遠くが見渡せた。空と山並みが境目になっている。ずいぶんと平らな山だな。西側一帯にまるきり起伏のない山。山?日本海側に出たはずだが…よくよく見直せば鮮やかなエメラルド色の広大な海だった。驚いてしまった。山と海を見間違えるとは。漫然と眺めていて、海なし住まいの御国柄が出たのか「空との境目は山の稜線」と思い込んでいた。この広さといい、鮮やかさといい。水平線をこんなにも遠くに見たのはいつ以来だろう。空の占める割合がずいぶんと少なく感じた。東から注ぐ白い陽の光が、水本来の色だけを投げ返している。日の昇る東や南の海、夕日の落ちる西の海でも見ることのない色だろう。しずかにその景色を眺めながら進んだ。
三〇分程、沿道に桜が咲いているのを気にしながら走った。このあたりではやっと満開を迎えたようだ。海沿いには風力発電の風車も立ち並んでいる。どうにかまた桜を撮れないかと場所を探したが、企業の駐車場のものだったり、高架下のものだったり、撮りに行くのは忍ばれた。しかしそのすぐ西の辺りにたくさんの桜が並ぶ公園を見かけ、急いで進路を変えて道を下った。広い池の周りに無数の桜の木が満開に咲いていて、小高い丘に東屋、その向こう遠くには雪を被った真っ白な鳥海山が見える。素晴らしい景色だ。池のすぐ前の駐車場に車を止めて、カメラを二台、右手側にマクロレンズを付けた旧機種を背負って出る。「桜まつり」のぼんぼりや、広い駐車場で穏やかな時間を過ごしている警備員を見ると、ちょうど花見の時季らしいと気づく。しかしまだ早いのか、人はまばらだった。
道を挟んだ北側に、「白瀬南極探検隊記念館」があった。入って画面に流れていた観測隊と観測船に関する映像を見た。白瀬直氏の胸像の下に、「探検家なるもの、酒を飲まず、茶を飲まず、煙草を吸わず、湯を飲まず、火にも当たらず」という誓願が銘されていた。驚いた。極地で「湯と火」は重要な生命線だと思っていたからだ。それすら満足に得られない場所と考えて、心身を鍛えねばならないのか。想像を超える精神性が要るのだろう。東北地方で寒がっているようではまだまだか。
池の周りの桜を見ながら歩く。同業者が白い山に望遠のレンズを向けていた。いい眺めだ。雲間から真っ白の頂上がのぞいている。桜は咲き乱れるという言葉にぴったりで、枝じゅうに花を湛えている。繰り返しカメラを向ける。疲れるまで撮った。難しい花だ。ものとしては撮りやすいが、景色の一部に取り入れる事がまだできない。小さな畑に菜の花を見つけた後、池を一周する。1kmほどだろうか。ずっと桜が続いていた。いいところだ。丘に近づいてきて、東屋に上がってみる。花見をする家族。さっきの山に長大なカメラを向ける人。グランドゴルフの小さなコースがあった。近くを歩いていた海外からの旅行者に声をかけられた。西洋の若者五人連れである。「お伺いしたいのですが、写真を撮っていただけないでしょうか」「かまへんで」「このカメラ、あなたでも使えたらと思うのですが」「まかしといて、ええか、はい笑ろて、もう一枚」「つぎは日本風のポーズよ、ピース」「ちょっと暗いねんけど、ISOどないしたら変わんの?」「ああ、ええと複雑なカメラよねこれ、開放でどうかしら」「うーんまだ暗いなあ」「もうiPhoneでいいんじゃない」「せやな一番ええカメラやで、貸してんか、撮るでー、ほいどないでっか」「ええやんか、やっぱiPhoneやわ、アリガトウゴザイマスー」「かまへんかまへん」激動の国際交流時代。昨日振りの言葉の壁であった。妙なイントネーションであったろうと思う。あちらは平気で英語を通してくる。こちらも平気で英語を使えるようになるか、平気で日本語対応かしかない。
一一時半、気づけば二時間ほど撮り歩いていたようだ。空腹による「一一時半のお報せ」だ。車に戻り、山形県に向かう。途中広い畑の向こうに鳥海山を見て、また撮りに出たりした。一三時に三川町に到着。昼食。豆腐、刻みねぎ、ごまだれ。最高である。ごま油とだし入りのわさび醤油も最高である。空腹は最高だ。
一四時半。コーヒー屋へ。コーヒー、バナナナッツマフィン。
記録を済ませて読書をし、一七時。もう少し読んでいたいところだが、日の入りの風景を撮影するべく早めに店を出た。屋上駐車場からも広大な農地と小高い丘に近づく夕日の風景が撮れた。車で西の海へ向かう。途中、海ばかりでなく農地の風景を撮った方が土地柄が出ていいのではないかと思った。しかし自分の見たかったものは海に沈む夕陽の景色だった。広い農地の間の道をそのまま進んだ。酒田市浜中海水浴場。海岸に出る何mも前から道路が砂だらけになっていた。立ち並ぶ家々の向こうには建物も木も電柱もない。もう海辺だ、砂浜へと車のまま進む。車輪の沈む感覚。塀が途切れ、浜全体を視界が捉える。
涙が出るほど美しい、日の入りの砂浜の風景だった。急いで車を止め、カメラと三脚をひっつかんで降りる。延ばした三脚の脚を砂に突き立ててカメラを据える。薄い雲、朱く色づく太陽、凪、寄せては返す波、広い砂浜、どこまでも何もない海。本当に、途中で止まらなくてよかった、一息に来てよかった、何度も思った。
日が沈んで、空が青に戻るまでとり続けた。写真では伝えられない美しさがあると思う。共に観たい人びとが思い浮かぶ。
他にも何組か、車でこの景色を観に来る人たちがいた。一人で観るにはもったいない景色だった。撮った写真を早速弟に送る。その後は夕食の準備。砂浜で焚き火をしよう。残りの薪をすべてコンロに並べて新聞紙に点火。いい感じだ。お湯を沸かしてスープを入れ、火でトーストした食パンを、チーズとともに沈ませる。最高だ。
火の始末をして二十二時に寝る。暗い海に向かってドアを開け、少しの間眼を閉じた。すばらしい日だった。眼が慣れると、空高く昇った月が、波を白く照らしているのが分かった。