四月二〇日(水)快晴
四時五五分時に目が覚める。ちょうど太陽が昇ろうかというところで、空の色がグラデーションを成していた。
ドアを開け放って朝の空気を取り込むのが習慣になっている。その土地ごとの夜明けを体感する。いい空気だ。冷たかった。朝食。この日の撮影地を考える。埼玉県の長瀞町へ。もう一、二週間早ければ、桜が見頃だったというが、今はどうだろうか。六時半に出発した。午後には一度家に帰る予定だ。
登り下りの山道を一時間ほど走ると長瀞町内に入り、小学生が揃いの薄紫のジャージで登校している様子が見られた。再度地図を確認、荒川を渡ってトンネルを通り、宝莱島というところに車を止めた。ずいぶんと真新しい駐車場に手洗い場がある。カメラを二台背負う。明るい日差しが眼に障るので、サングラスをつけた。花粉用だが紫外線も防げるとか。さっきと同様、薄紫のジャージ小学生が数人、すっかり新緑に染まった桜並木の下を通って行く。案内の看板を眺めて散策の順路を考えていると、「写真?!写真撮っでんの?!」と背後から声を掛けられた。威勢の良いおじさまが歩み寄ってこられた。生返事で振り向くと、すかさず威勢良く、近辺の見所を説明してくださった。「いまねえ、ちょうどオレンジのツツヅが咲いてるよ!ツツヅが!オレンジの!いつもだったらもうちょっど遅いんだけどねえ、今年は早いわ!見ておいで!今ここねえ整備したばっかなんだわ、新しいでしょ!あーあとねえ、あれ、そこ行ぐと道があったろう?であっち行ぐとトンネルがあんだ、トンネル!あんた車かい?あああれだな!そのトンネルの前に東屋みたいのがあっがら!その東屋に車を止めで!んで隣に神社があんのよ神社が!そっから岩畳をのぞぐと真上から見えんのよ、対岸からでなぐて真上から!こりゃ結構な穴場だがら行っでみるといいよ!なあ!へえ~写真撮ってんのか~、朝から?高速で来たの?!」「いやあ、今日本一周しているんです。」「ええ!何だって、日本一周!?へえ~いいねえ!そんで写真撮ってんだ、いいなあ、何か出したり、本にまとめたりすんのかい?!」「かくかくしかじかで」「へえ~!!そらいいねえ!寝泊まりはあれかい、車で?」「はいそうです」「ああそうかい、今ねえ被災地でエコノミー症候群で大変みたいだから、たまにはどっか別んとこ泊まった方がいいよ!じゃあねえ行っておいで!・・・(颯爽と立ち去りながら)へえ~そうかい!」気さくで素敵な方だった。のんびりと歩き出す。林の間の、まだ踏み固められていない柔らかい土の歩道。やっと切り開かれたばかりといった様子で、枝が道を塞いだりしていた。耳慣れない鳥の声。木立を抜けると景色が左右に広がり、流れの弱い水辺が現れた。木々の緑と空の青の対比が非常に鮮やかで驚く。これほどのコントラストは初めてではないだろうか。板が渡された橋ゆくと中州にたどり着く。ここが宝莱島ということか。例のツツジが、まばらだが鮮やかに咲いていた。珍しい色だ。丈も目の高さほどある。南に進むと稲荷の社と鳥居があった。内を覗くと狛犬が二対ほど。さらに南に行くとすぐに中州の南端に出た。景色の広さに驚く。荒川のせせらぎが、遠く秩父の山間から下ってくる清々しい眺めだった。中州の西側には、さっき渡ってきたところより多くの水量が注いでいて、岩場を避けるようにうねりながら、爽やかな水音を立てている。天気にも恵まれたようだ。足下の岩が気にかかった。薄い層をいくつも重ねた、青銅色の石質で、ところどころ層に沿って”剥がれ”ている。来た道を戻り、中州の北側へ。綿を纏う不思議な植物。林を抜けると、岩場の下りの始まりに、石碑が建てられていた。裏面の協賛者の銘を過ぎ、川に面する碑文を読んだ。
「金石の渡し記念碑」。二行ほど読んでやめようかと思ったのだが、惹きつけるものがあったのだろう、縦に長く行頭を見失いやすい碑文を、何故だか必死に読み通す。都々逸で始まったそれを読み終えて、この地、この場所の歴史の一端に、確かに触れたのだと感じた。
二〇〇年前から、かつてこの場で渡しが行われていた、荒川流域最後の渡しとなるまでの間、人の手で舟を繰り、人や家畜や物資を対岸へ運んでいたという。ーーー嵐や洪水にはかなわず、舟や船頭小屋を村の皆で声を合わせて引き上げた。寒くなると繰り綱の針金の冷たさが手に滲みたが、子どもたちを向こう岸まで送るとなれば気が引き締まる思いだった。専業の渡しがいなくなると、周辺の村の者達が輪番で渡しをした。昭和の後年まで、五〇名ほどの小学生達の通学の為に渡しは続けられた。冬場の減水期には舟が使えず仮の橋を架けて通ったが、後には濫掘に依り川底が岩盤となり、架橋ができず下流遠くの橋まで迂回していた。「渡しを守り続ければ何時かは橋が架かる」と、橋の建設への人々の積年の悲願はついに成就し、昭和五六年三月、皆野長瀞水道企業団により金石水道橋が竣工し、大役を果たした渡船は人々に惜しまれながら廃止された。金石の渡しは区民の大きな苦労や対岸区のご協力、町当局のご配慮に依り無事故を以て守り継がれ、地域の産業文化の向上発展に重要な役割を果たして来た。激動の昭和が終わり、新しい平成の年を迎え、記念事業として嘗ての船頭小屋の位置に記念碑を建立し荒川の清流に託して渡船の事業を後世に伝えるものである。ーーー
井戸と下野は荒川一重 文のやり取り波がする
早く越せ越せ金石船頭 井戸じゃ娘が待っている
改めて読み返す、始めの都々逸が心に響く。目の前に実在するこの光景に、想像を重ね合わせた。立派な橋が、今目の前に架かっている。今朝の小学生達もこの橋を渡ったのだろう。
この碑文は、単なる歴史的な重要文化の伝達と言うよりも、その地に暮らし、その文化に関わった人々の、心情や願いをありありと伝えるものであるように感じた。
良い巡り合わせだ。人あっての苦楽。苦楽あっての人。川の風景を写真に収め、右岸を下流へ散策した。対岸では、すみれと菜の花の対比が美しい。川の曲がったところに大きな岩が構えている。足下の州に無数にひびの入った石があり、手でほぐすことができた。不思議な経験だった。
一通り川の景色を見て車に戻る。温かい日差しにコートでは汗ばむほどだった。紹介された穴場とやらに行ってみよう。トンネル目前の狭い歩道の木陰に立つ東屋を見つけたが、神社入り口の僅かのスペースに入っていくことが躊躇われて、トンネルに入ってしまった。一山くぐってからUターン。せっかく紹介してもらったのだからと、思い切って鳥居の前の狭い歩道際に駐車し、カメラを持っていく。鬱蒼と茂る木々の向こうに景色を探そうとは、確かに思わないような場所だ。春日神社のその社の裏へ進んでみると、そこはもう切り立った崖の上で、眼下には深い青色をした荒川と、さっきと同じ青銅色の層が目立つ大きな岩畳が垣間見られた。これは確かに穴場だった。崖の上、木々の陰から陽に照る川と、ライン下りの船、船頭、向こうの山々が見渡せる。足下に注意だ。
新緑の楓の下で木漏れ日を撮影、車に戻り、長瀞駅や宝登山神社を一目見て、いよいよ自宅へ戻る。一〇時。二時間ほど走って一二時。本当に、いつも見ていた景色に戻ってきた。陸続きで地続きで、地図の通りに様々な土地が存在していた。東へ辿って、北から回ってきても、同じ街に戻ってくることができるということが不思議だった。
自分はもう別人のようだった。
家の駐車場に車を止め、洗う物、機材、食料、要らないと分かった荷物を抱えて家に運ぶ。
その後は、シャワーを浴び続けた。
三週間か。長かったように思う。初めて訪れる街、慣れない衣食住、風景を見続ける毎日。記憶に訴える情報の量が多かった。服を探したが、どれも緩くなってしまった。ずいぶんと体が細ったようだった。
洗濯を済ませてお茶菓子に飛びつく。あまりものを使って昼食。食器を洗うと疲れがどっとやってきた。運動機能が低下している。肺活力、脚力、持久力、柔軟性。
写真を整理し、それらと音楽を組み合わせて簡単なスライドショーをつくった。出来上がったものに驚く。自分の写真に感動したのは初めてだった。こんなにも美しい景色が、こんなにもたくさんあったのだ。一度見てきたはずなのに、知らなかった。ーーー家に帰り着いた安心も手伝ったのだろう。大きな感動があった。
車の中の掃除をし、洗車をした。いろいろな場所で浴びた潮風や砂、花粉、空気。一度洗い流す。この先の無事を祈って。
疲れた。本を読もう。部屋の本棚から三冊選んで、隣の仏間の大きなクッションに体を沈ませた。少し読む。ああそうだ、と仏壇に望む。無事帰りました。
久しぶりに家族と食事をした。旅のことや地震のことを話した。
一八時、いつも通っていた、駅前のコーヒー屋に行く。いつもそうしていたように、歩いていく。いつも居た場所に来てみると、余計に自分の変化がよく分かった。まず疲れている。循環器系には気を配らなければ。そして考えていることが、旅の前とは大きく違っている。それは当然だ。時間の使い方も、人間関係も、過ごした場所も、全く違かったのだから。自身のこの変わりようは興味深かった。
二二時半まで旅の記録を続け、閉店。店を出て歩いて家に帰った。