五月四日(水)快晴
六時半起床、もうずいぶんと明るかった。昨夜二~三台だった車が、バイク等も含めて少し増えていた。よく晴れた海。朝食前に灯台へ行く。大きな看板によると、森の中の遊歩道を一八〇〇mほど歩くということだった。結構な距離だが、行かねば景色も観られない。その遊歩道の入り口で、ほっかむりの老女が夏みかんを押し売りしていた。そういえばこの地は愛媛、みかん県である。「もって歩くと重いだのなんだの」となにやら理由を重ねて、「二五〇円なければ一〇〇円でも」と値段をどうのこうのといって、岬に来た観光客を狙って声を掛けている。自分は緑のレインジャケットを羽織っていたのだが、それを見るなり声を掛けられた。他にも緑の服を着ていた人がいて云々、車はどれだと云々。いぶかしんでいると、駐車場から西訛りの、緑のカーディガンを着た女性が、財布を携えてやってきて、押し売りに負けてか、一つお買い上げのご様子。他にも、駐車場の片隅に座り込んで、明らかに不満そうな仕草で、夏みかんの皮を剥くライダーがいた。
カメラを一台持って歩き出す。遊歩道は木々の立ち並ぶ森の中へと延びているが、歩きやすく舗装されていて、新たに柵を立てる工事の途中のようだった。所々に作物を入れるようなプラスチックのケースが空のまま置かれていたが、何だろうか。一〇分ほどで景色が開け、もう一山。灯台へ続く階段や、波打ち際へ続く道、さびれた小さなバンガローの集まるキャンプ場が見える。灯台に向かう途中には椿山展望台への案内があり、まずはそちらから見に行った。木々の間を少し上ると展望台にたどり着き、老夫婦と入れ違いに、景色を眺めた。正面西側に、白亜の灯台、そこへ上がっていく階段。その階段を一組の男女、女性の方は緑の装いで、上がっていくのが見えた。近くで鳶の鳴き声がしていた。展望台から下りると、煉瓦等で整備されたガレージのようなスペースが、斜面にくり抜いてある。看板の説明によると、これは戦前に使われていたもので、移動式照射台格納庫などとあり、不振な船の探索や、敵国の航空機への攻撃の補助に使われた強力な照明器具があったということだ。昨夜見た灯台からのひときわ強い光にも関係がありそうだった。その光の意味についてはまた、近くの看板に説明があった。「黄金碆(おうごんばえ)」という岩礁に向けて、夜間照射されているものだそうだ。潮流が速く、座礁が絶えないため灯柱が立てられたが、保守作業も困難なため、灯台から岩礁を照らす方式に変更されたという。
灯台に上がる。一面の海、東側は朝日にきらめいている。正面に大分県佐賀関、鳶が優雅に風に乗っていて、周囲の木々ではヒヨドリが群を成し、枝から枝へ風に逆らっている。先ほどの男女が、灯台の足下にカメラを据えて、記念撮影を試行錯誤していたので買って出た。「ありがとうございます、こんなんしか撮れなかったんすよ」岡山の方だそうで、岡山にも来てください、岡山には何もないです、ということをいっておられた。桃太郎もいません、とのこと。呼んでいるのかこれは。写真を撮っていると、また一人、観光の方。栃木からバイクで来たという方で、記念撮影を頼まれた。昨日の天気のことや、出身、道順などについて語り合い、互いの安全を願って別れた。
来た道を戻る。それほどの距離ではなかったが、本当に一八〇〇mあるのだろうか。八時、車に戻って朝食の支度をした。お腹も減って、いい時間だ。豚肉、野菜類を炒め、細麺のうどんを入れて蒸し焼き。合わせ調味料。素晴らしい味だった。毎食、食べるものがあり、生きていられることをありがたく感じる。二五台分ほどの駐車場は、車やバイクで埋まっていた。九時に出発、給油後、半島を折り返し進んでいく。上りの道が多いように感じる。峰には風車が二〇基ばかり並んでいた。高台から南側の海を見ると、遠くまで青く続いていて、東の方は日に照らされて光っていた。お遍路さんがちらほら、目に付くようになってきた。陽射しは温かく、風は涼しくて、いい時季だろう。四国は旅人に寛容かつ親切な風土があり、昔自転車で旅をしていたころ、そのことをよく感じたものだった。食堂ではボトルに麦茶を入れていくように勧められたり、土産屋の店先では自分が持っていたごみなど、「うちでほうりましょうか(捨てましょうか)」と声を掛けてくださったりした。何を買ったわけでもなかったのに。これらは遍路接待の文化の影響が大きいということを聞いたことがある。遍路について調べてみた。
遍路は大まかには、四国にある弘法大師・空海ゆかりの八八カ所の寺院を巡拝することをいう。讃岐国に生まれた若き日の空海は、仏道修行のために都から遠く離れた四国他各地の寺を回ったといわれる。その入定後(亡き後)、修行僧等が大師の足跡を辿って、遍歴の旅を始めたのが、四国遍路の原型とされる。室町時代には僧侶の遍路が盛んになり、江戸時代頃から庶民にも巡礼が流行するようになった。信仰を深める目的の者や、ハンセン病患者などで故郷を追われた者、民衆の接待によって食を得る職業遍路や、贖罪を目当てとする者、病回復や利益を願う者達が遍路を行ってきた。現在は様々な遍路道や回り方があるが、徒歩で一度に回り切るには、四〇日程度、一一〇〇kmから一四〇〇kmの距離を行くのだそうだ。自転車や車、交通機関や団体ツアーで遍路する者もあるという。
一一〇〇km。桁が増えると、人を黙らせる力をもつものだ。自分の旅もようやく三〇日が過ぎた程度だ。四〇日間、毎日三〇km歩き通すことの苦労は想像もつかない。それならでは、巡礼者への心遣いも生まれるものだろう。互いの安全を祈って、運転を続ける。
一二時、休憩に、アイスコーヒーと茶受け。ついでに昼食の支度。午後、愛媛県の西部の海際を東に逸れて、山の間を南に進む。高知県に入ってまもなく、流れの穏やかなエメラルドグリーンの川が見えてきた。四万十川だ。山々の間に谷をつくりながら流れるその川に沿って、右へ左へ弧を描きながら進んだ。晴れた空、山はどこを見渡しても、溢れんばかりの木々、緑の葉に覆われている。うっすらと赤や黄に染まる木々がところどころに見られた。種類によるものなのか、時季によるものなのか。そういえば随分と陽射しが温かく、風を受けるのが心地よかった。上着を脱いでシャツ一枚、窓を開け放って進むと、もう夏が始まっているのだろうかと感じる。ついこのあいだは、東北で雪を見て寒さに耐えていた。実際それは、地元の人々にすら驚かれたことのようだったが。
移動の多い旅で、「季節の移り変わり」と「土地土地の気候の違い」を見分けるのが難しい。ひとところに留まれば、季節の変わりゆく様子がよく分かるだろう。反対に、日を跨がないうちに遠方に出る、たとえば飛行機で一足飛びに南国や北国に行ってみると、気温や湿度の差をはっきりと感じる。自分の旅は、移動にも多少時間がかかっているものだから、どうも以上のような季節感が、どちらにもせよつかみにくい。だからこの記録の中では、その場その時の陽射しの温かさや風の暖かさを、主観的に表現していくことになっている。過去や未来に想いを遣らず、経験に囚われた季節としてでもなく、その刻に訪れるまたとない出来事として。
心地よい陽射しと風の中を、四万十川の流れに沿って進む。山と川だけの穏やかな風景が続く。川が大きく弧を描いた一画に差し掛かると、石造りの簡素な橋が見え、そこを行き来する人たちの姿があった。左岸には乗用車やバイクが多く止まっていて、右岸の広い中州には、カヌーを用意したり、川遊びをする人の姿。「岩間沈下橋」。後で知ったのだが、四万十川流域で、全体の風景が最も美しいといわれる、橋のある景観だそうだ。思わず車を路肩に止めて、大きな水の環のようなその風景を撮った。下流から、屋根のついた舟が、乗せた客に何かを説明しながら、ゆったりと上流へ進んでいた。
その先の道は狭く、車一台がようやく通れるほどの幅のところも多かった。すれ違いの為に、何度か止まって対向車をやり過ごす。そんなことを繰り返しながら進んでいると、三台前のトラックが止まって一向に動かなくなった。先の様子は伺えない。五分経ち一〇分経ち、後続車が五台一〇台どころではなくなっていた。最後尾は遠く見えない。切り替えして戻ってゆく車もあった。エンジンを切って待つ。車を降りて事情を探りに歩いてゆく人もあった。自転車乗りも、進んだ先から戻ってきたが、向こうからバイク数台が通行しているから、車のすれ違いに時間が掛かっているのだろう。二台先の乗用車が業を煮やしてUターンしていった。「無理無理」と並んで待つ車に呼びかけながら。それからまもなく、対向車が何台か走ってきて、先頭で待っていたトラックも進み出した。どうなることかと思いはしたが、渋滞とは思えないような穏やかな時間で、自然に囲まれて過ごせることをのんびりと楽しめる不思議なひとときだった。その先も道は狭く、止まって対向車をやり過ごしては進むを繰り返した。大型連休の影響だろう。車のナンバーにはとりどりの地名が見られた。数人の警官が交通整理に出ているところもあった。
一六時ごろ、山間の道を抜けて四万十市市街に出た。下流の川辺も美しく、瑞々しい草原と川に掛かる赤い橋が対比をなす。西に傾く太陽。ここでも行楽の人々の姿が見られた。コーヒー屋を探して、記録を四時間。そしてまた再びのうどん店。昨晩と同じ系列の、同じメニュー。やはり美味しい。しかし気遣いの大切さをはっきりと感じるのだった。何の無礼がなくとも感じられるのだ。相手の顔を見なくとも、それが誰の用意した料理であるかということは、はっきりと表れる。漫然と用意されているか、注意が注がれているかの差は明確だった。いい勉強になった。
地図に載っている大規模な敷地を見つけ、土佐西南大規模公園に移動。名前まで「大規模」とは思わなかった。