五月七日(土)曇
八時に起きる。朝食後にコーヒー屋を探すと、近くにスターバックスコーヒーがあった。このあたりが県内のスタバの南限のようだ。記録に五時間立てこもる。スーパーマーケットや本屋の併設の店で騒々しかったが、むしろ集中できたのか、捗った。途中冷房に負けて上着を二枚持ち出して着込んだが、外はもう初夏を思わせる暖かさで、周囲の人々の装いもそれを受けて軽やかだった。
一四時半、店を後にし、昼食。
一六時半、和歌山県南端、潮岬を目指して走る。もう日が傾いているが、今日はまだ写真を撮っていない。海岸沿いを走っている途中で夕陽を眺めるつもりだ。一時間ほど走り、波際の景色の開けた所を見つけたので、落ちかけた夕陽に向けて三脚を立てた。火力発電所の煙突が右端に、その左に陽が落ちる。足下に波が寄せる。悪くない景色だ。しかしあまり熱意を出せずにいた。義務的に撮っているだけなのだろう。美しさに打たれて撮っているのではない。
旅の掟に、毎日撮ることを当然のこととして課していたのだが、それは風景を人に伝えることを目的とするところであった。撮ること自体は目的ではなく一つの方法でしかない。だから、伝えたいと思う風景に出会わなければ、目的を果たすことは出来ないということだ。ただ、それは決して環境に左右されるという意味ではない。どのような土地でも、どのような状況にあっても、足で探し出すことは出来た。このことは、長く続けていて分かったことだが、他のどのような分野に於いても、続ける限りは道の開けるものであろうと感じる。能力を状況や環境、課題に適合するよう変化させたり向上させたりすることで、対象を問わず意味を読み取り、また創造することが出来る。
しかしながら、この時自分が求めたことは、「結果として作品が用意出来る」ということだった。義務的であり、成果主義的であり、本当の目的を欠いている。自分の能力の範疇に、状況や課題を押し込めようとするプロセス。ここで撮れたものに例えば金銭的価値が、例えどれだけ伴ったとしても、それは有意義ではない。
普段と同じように撮っているようでも、その目指すところが違っていたために、成果に大きな差が生まれたとはっきり感じた。実際に、納得できる風景として写し取ることは出来なかった。撮ることはあきらめて、カメラの設定を色々と試してみるだけにした。これはこれで、良い機会になった。今後目的を違えることのないように気を付けようと思う。
夜道を進み、「道の駅すさみ」に立ち寄る。荒んではいない、むしろ新しい施設だ。その駐車場で夕食に、果物やヨーグルト、豆腐。さらに二二時半まで運転を続け、ようやく目的地の潮岬に到着した。辺りは暗く、ひと気もなかった。灯台入り口を過ぎて少し進むと、広く開けた場所に出た。潮岬キャンプ場だ。駐車場の奥に進むと、海のそばまでたどり着いた。バイクが数多く止まっており、車も数台あった。広い芝生の草原の隅、木々の下に張られたテントや、焚き火の明かりが見える。角に止めて車の外に出てみると、ここでもまた素晴らしい星空が見られた。南東の海のまだ低いところに、銀河の形がはっきりと現れて観える。濃い紫の天の川、隔てて輝く牽牛織女、橋渡しの白鳥座。晴れてゆく雲。流れ星が幾筋も空を駆ける。あまりの真近さに驚いて顔を背けてしまうほどだった。夢中で写真を撮る。近くに展望台を見つけて、そちらでも撮った。この夜空を見せたい人々の顔が浮かぶのだった。雲が掛かるまで撮ると二四時を回っていた。