五月一三日(金)晴
四時半起床。日の出を撮りに向かう。城ヶ島公園の東の端に、なかなか立派な三階立てほどの高さの第一展望台がある。上ってみると東の朝焼けの東京湾から房総半島の山並みが館山の端までが見え、南には太平洋に浮かぶ伊豆大島を挟み、西寄りには昨日走ってきた伊豆半島が見えた。このときふと、今見えた本土の陸地を一回りしてここに立っているということに、妙に感じ入った。東側の富津岬や館山にいたころはまだ出発したばかりで、不安や不慣れな生活にも惑っていたように思う。そして西側の伊豆半島ではもう不安はどこへやら、走る度に出会う絶景に心躍らせていた。数年前に眺めた「単なる陸地」とは大きく意味が異なって見えたのだった。その山並みの細部には、人が住み、風が吹き、景色があって、道が通っている。自分はそこを通った。それだけなのに、全く見え方が違うのだった。
そんなことを考えていると、東の陸から大きなオレンジの太陽が上ってきて、船の行き交う海がみるみる白く輝きだした。空も透き通るような水色から白へと変わり、そしてまた日常の色へ移ろう。海の低いところに溜まっているもやが、今眺めていた陸の水際を横一線に消し去って、房総が宙に浮かんで見える。撮り終えて、散歩に来た中年の男性に挨拶、車に戻った。
六時、朝食にサンドイッチ。その後出発、家に向かって走り出した。城ヶ島を抜けて、横浜の港の風景を横目に、都心部を抜けていく。朝の通勤時間を過ぎても渋滞がひどく、なかなか進まなかった。ここを旅立った時よりも陽射しがずっと強くなっていて、もう夏が始まるのだと感じる。
国道を通ると、周りがだんだんと見慣れた店や建物、高架や道の風景になってくる。家に近づくほど、地元の色は濃く、張りつめていたものは安心へと変わっていった。旅する喜びの一つは、この帰り着く間際に生まれる安堵への転換。そして最後の曲がり角に差し掛かるとき、自分の変わりように、笑みがこぼれた。初めて感じる気分だ。ーーー本当に様々な場所で、数多くの風景の印象を、こころに刻んで帰ってきた。別人になったように感じるのは、もう旅の前とは”精神”が別物になっているからだ。人間は誰しも、二つとない精神に、ひとときも同じままでは存続しないという一回性を併せて有する。久しぶりに「いつもの場所」にたどり着いたとき、そのことに改めて気づいたのだった。
家に入る。病床の母に挨拶をしようと思ったが、部屋にはいなかった。飼い犬の出迎えもなかったので、もう散歩ができるのかと、ありそうもないことが頭に浮かぶ。
荷物をいくつか運び出しで、車の掃除をした。足下の砂や草木の葉を箒で払い、外に纏った潮風や砂は水で濯ぐ。寝具を天日にさらして、手で軽く埃を払った。久しぶりの家での昼食を気もそぞろに済ませ、今度は衣類の洗濯、伸びた髪を切ってシャワーをながながと浴び、タオルを片手に写真のデータを家のパソコンに取り込む。仏壇で線香をあげて手を合わせると、ようやく人心地、かつてないほど心が晴れ渡る思いがしたのだった。無事戻った。それだけで十分だ。
仕事場から犬と共に戻った父は、母が入院したことを告げた。誰が心配をしても良くなるものではないから、前進と捉えるだけだ。あとは募る話を写真と併せて報告する。多くの場合、その人の知った土地の写真を見せれば、自ずと思い出話が聴けるものだ。そして我が家の父は饒舌ではないが、その手の思い出話の数が尋常でなく多い。「ここは行ったか、そこには何とかがあっただろう、昔そこでどうのこうの、誰々の本でこう書かれていたが、地形がああだから穫れるものはこうで、かくかくしかじか」打てば響くというものか。今の自分の旅に少なからず影響している。
一四時、夕食の話になる。肉一択だが。買い出しに出る父に、冷蔵庫の野菜を切っておくようにと言われた。冷蔵庫から野菜を出したところで力尽き、ソファーに沈み込むと、三時間が一瞬で過ぎ去ったように思われるほど深く、泥のように眠った。
一七時、起こされて台所に飛んで戻り野菜の下拵えを急ぎ、ホットプレートを食卓中央に据えて、皿だの箸だのグラスだので囲んでいく。一投目の肉を焼き、ビールと赤ワインで乾杯。父との酒席は何度もあったが、日頃ほとんど飲まない自分にとっては、これが初めてと言っていいだろう。旅のこと、母の調子のこと、兄弟達のことを話し合う。肉は旨い。血肉の塊、生命そのものだ。感謝せねば罪な味がする。酒もほどほどに進んでくると、父はある旅人の話を始めた。
ーーー二一歳、勤めた国鉄の職を惜しまれながら辞して旅に出た者があった。惜しまれてというのは、単なる鉄道ではなく、当時先端をゆく新幹線の、部品や車体の設計や図面起こしに携わる少ない人材であったからとのこと。彼の故郷である九州の外れ、西の海にある離島の父母兄弟には、「このままいくらでも続けていくことはできるが、都会の暮らしに埋もれる訳にはいかぬ」と手紙を送った。彼の父は面白がって、各地から送られてくる息子の手紙の差し出し元を、地図に印していったという。愉快なものだ。母は「子どものすることはどんなことでも正しい、ただ身体に気をつけて、無事でいることを願うばかりだ」と優しいのだった。そして弟は、「全く甘い親だ」と大きく反対をしていたという。
何度も何度も、北海道の礼文島から鹿児島県の与那国島まで渡り歩いた。饒舌でないにも関わらず、宿場で職を得ては喋りで客を沸かせるという役を任されたという。そんなことを繰り返しているうち、旅人の間では知らない者のないほど、名が知れ渡っていった。どこへ行くにも引く手あまた、ファンクラブまで出来上がる始末。メディアからの取材も断り切れず、演技も嫌々こなしたという。国中に知れ渡る。瀬戸内寂聴が「家に泊まりに招きたい」とも。
海に出れば、採った貝殻に穴を空けて紐に連ね、首から下げた。仲間とともに、各地で世話になった人々に、恩を返す意味で、同じものを贈って歩こうと考えていた。「歩こうと」考えていた。リアカーに荷を積んで旅する、そんな果てしない旅の構想をする中、宮崎県のとあるユースホステルで、ある女性に出会う。東京から、卒業旅行で来た女学生のうちの一人であった。その女学生はNTTへの就職を控えておりながら、なんとその旅人の旅の共をすると言い出したのだという。なんという向こう見ずであろう。
さらに一人青年を交えて三人、同じ飾りを首に下げ、手に入れたリアカーに荷を積み、薩摩半島南端、長崎鼻より日本列島徒歩縦断の旅を始めた。宮崎県の東の海岸、福岡県から本州へ、広島県では障碍を負った子どもの世話に奮闘、資金が底を突いて、大阪の繁華街のビル屋上で、中華料理屋のバイトをした。貯まり次第日本海側を北上、新潟県柏崎から内陸を行き、東北を駆け上がる。青森市からのフェリーで北海道苫小牧に渡り、国内本土最北端、稚内に到着。六ヶ月。季節は巡り、そのころにはもう冬であった。札幌の駅で多くの旅人達とともに寝泊まりを繰り返して金策をしていると、例のメディアの影響で、彼の故郷も、彼女の故郷も大騒ぎになったという。東京の、その女性の両親には酷く当たられたものだったが、ともあれば結婚の運びとなった。
さらに旅を続ける。夫婦揃って、南鹿児島の教習所で自動車の免許を取った。人々の好意から、なんと乗用車を譲り受けた。土砂降りの雨に部品が壊れて山の中で立ち往生したこともあった。各地でファンらが、彼を囲む会を催し、関東へと渡ってゆく。
長男が生まれてたどり着いたのは今、冷めたホットプレートを間に語らっているこの場所。書家として仕事を興そうか、新聞にあった「氷菓子屋」の事業の広告をみて電話を掛けると、もう隣の家がやっていた。いざとなれば土方でいくらでも稼ぐ体力はある。奥の手で残しておいた家具づくりを妻に勧められて、木工所に勤め始めた。彼女は夜遅くまで、国道沿いのあのファミレスで働いた。生まれたばかりの長女は男手一つで育てたようなもの。家具作りではとてつもない働きぶりを見せ、五年で独立のために木工所を惜しまれながら出る。妻の実家の両親に手伝われながら死にもの狂いで働くと、義父母の見る目は瞬く間に変わったという。それからは稼ぎに稼ぎ、九年空いて第三子誕生。税金の経理に頭を悩ませた妻がどうも、気を病んで、入院したという。そのころと同じような病に今また苦労しているのだ。
それにしても、かつて日本という国には、旅人の黄金時代があった。この国には、人の温かさの、金色に輝くような大地が連なっていたのだ。どこへゆこうとも必ずその土地土地に、応援したいと願う感性をもった人々がおり、たとえ物質的な豊かさが無かったとしても、どうかこうか、身の回りの世話をしてやろうという気遣いを絶えずもっている、心ある人々がいた。ーーーー
「経済性と人情味とが、追いついたり追い越されたりしながら、その中でどうにか、こんな無謀な旅が出来た最後の時代だった。お前はもう、その時代には生きていない。どうにかなるとは思うな、つつがなく生きることだ。」
全く初めて聴く話だった。兄弟ももちろん知らない。彼も初めて人に話したという。きっと饒舌ではないからだろう。この日見舞った母の調子が好ましかったことがあって、つい、と付け加えた。私が旅に出ていなければ、聴くことは無かっただろうし、母がこの場に居れば同じく、聴くことは無かっただろう。
そんな親から生まれれば、被災地だの欧州だの旅だの、兄弟姉妹揃って方々に出ていることも何ら大したことではない、むしろ当然の成り行きであるように思われて、妙に溜飲の下る思いがした。まさしく宿命というものだ。生まれる時代も場所も、選べないようでいて、その実選んで生まれてきたかのように生きてゆく。世に偶然などというものは一つもないのだろう。