五月二八日(土)雨
八時間眠った。まだ気疲れがあるが、運動後のような心地よさもあった。朝食の支度。炊飯、鯖の味噌煮。久しぶりの魚が美味しい。食後、大きな橋の真下にぶら下がるように造られた遊歩道を散策した。日本三大急潮に数えられる場所ということで、潮の引くときには雄大な渦潮が観られるという。橋の下一〇〇m弱のところの水面は、水が対流し、所々波立って見えた。橋の中腹にはガラス張りののぞき窓があった。北側遠くに三本の巨大な無線塔。大正時代のもの、一三八mあるという。真珠湾攻撃の際に「ニイタカヤマノボレ」という暗号文が発信されたものだという。対岸まで行けば広い運動公園があるらしいが、引き返して一〇時、長崎市に向けて出発。
市の中心部に近づくと斜線が多くなり、人や車の往来が激しくなる。路面電車が車と併走している。その線路を跨ぐときには少々緊張した。一一時。平和公園。雨具とカメラを手に、坂を上ると広場に続く歩道。様々なモニュメントが置かれている。世界中の国から贈られたものだった。さすがに米国からのものは無い。噴水を過ぎ、鐘を過ぎ、歩道が尽きたところに広場があった。そしてあの銅像。右手で空を指さし、左手を水平に延ばしている。原爆の脅威と、平和を意味しているという。
心鎮まる。某国からの団体の観光客がそこらじゅう、がやがやとにぎやかに像の前で同じポーズをしてはしゃいでいる。傘を開いたまま放り投げて写真を撮り合う。
ほんの七〇年前、たった一瞬で吹き飛ばされ、焼け野原と化した地。何が起きたのかも知らぬまま水、水とさまよう人々。想像するだけで背筋が寒くなるのだが、ここに立っていながら、とても現実味が沸かない。戦争の恐ろしさを知らないということはなんと幸福なことだろうか。武力も争いも平和をもたらすことはないと、人類が知るはいつだろうか。
碑文を読む間にも脇から身を乗り出して入り込んでくる某国の観光客。五分で見切りをつけて、公園を後にした。
長崎駅の周辺はすごい交通量で、街中を眺めながら走るにはちょうどよい渋滞具合だった。駅前に観覧車、港や美術館、中華街。やはり雨と坂がよく似合う。車を止めて買い出し、一五時にコーヒー屋。日の入りを待つ。雨が止むだろうか。
一八時、曇り空だが、窓の外、街行く人々は傘を閉じている。稲佐山へ。港を過ぎて坂道を上っていく。中腹の駐車場に車を止め、カメラと三脚を持って頂上を目指して歩く。駐車場の隣では、鹿が二〇頭ほど飼われていた。吐く息が白く見えた。寒さからではなく湿度の為だろうか、霧が立ちこめている。上っているとすぐに暑くなってレインウェアの前を開く。一五分ほどで山頂の展望施設に到着。傍らには電波塔も三つほど立っていた。世界新三大夜景に登録されたとあって、立派な施設だ。五階立て程の高さ、全面がガラス張りで、内部は緩やかな螺旋の坂道。
外階段から屋上展望台に上がると、南東側に長崎港と市街地全土の素晴らしい夜景。本当に素晴らしい夜景だった。西側は霧の海になっていて、峰が僅かに覗いている程度だった。晴れていれば軍艦島が見えるという。やや西寄りのところに、双眼鏡の外れてしまっている台座があったので、そこに三脚を立てた。何度も試しながらシャッターを切る。一五分ほど立つと霧が掛かって街明かりが霞んでしまった。また一〇分ほどすると晴れていった。家族連れに写真を頼まれる。その後また少しすると、何も見えなくなるほど真っ白に霧に覆われた。あれだけ雨続きだったのだが、昨日のハウステンボスといい、この夜景といい、巡り合わせに感謝せずにはいられない。そういえば昔観た摩周湖でもそうだったなと思い出す。僅かの時間差で観られずに帰っていった人もいたようだった。また来ようと思った。
二二時、シャトルバスで中腹の駐車場へ戻る。移動、一時間ほど走り、大村公園に到着。花見客用駐車場と書かれた空き地に止まった。