旅日記 短編 台北淡水台湾


    振り仰ぐ寒緋桜ははや盛り振り返らぬままいととしひととせ


1、淡水

2、詩歌

3、書生


 1、淡水  2026年3月8日 日曜日

 普段より遅くに起き出して柔軟、朝食、長らく振りに撮りに出る身支度をする。普段と違う上着やブーツ、厚手の靴下、持ち歩くノートの数を減らし、水筒も軽いものに。

 カメラを背負うとやはりしっくりくる。「もう展示をするつもりもないのだが」という思いは今後もその都度よぎるのだろうが、異国異郷を歩くとなれば展示の有無など関係無しに携えたいもの。過ぎ去っては消えていくばかりで残らないと諦めるには惜しい光景頻り。家を出るとすぐ近所に寒緋桜が赤々と咲いていたので、設定の確認ついでに1枚。台湾桜とか薩摩桜などとの別名があるらしい。

 前夜から今朝早くまで、誤字の訂正をしていた。1万字ごとに1字、昨年末に書いて公開したものにようやく自ら目を通したのだった。

 台湾についてはまだ何も著していない。10数年前の旅行について紙の日記に、その後二度の移住や間の再々再訪についてはまとまった記事もなく、周遊先での出来事だの、教え子の結婚式についてだのを都度ノートに書いた程度。初めて表立って書くものが「淡水」の題になろうとは不思議だ。2年振りに行ってみたら家から電車で30分も離れていなかった。

 台湾再度の移住から1年が経ち、思い返せば「本当にどこへも出掛けていない」と思い知る。書くに事欠いて淡水、日本だったら都心住まいで台場か新木場について書くようなものだ。それでも次の1年を見通せば同じことになりそうだから、少ない機会に筆を執っておこうと奮っている。

 いつもより遅い正午、いつものとおりに珈琲屋へ行き、漢詩を二首和訳して手書きに清書。15時に切り上げて駅へ。北へ向かう列車、だんだんと遮るものが減ってゆく窓の外、雲間の晴れ。まだ耳慣れない駅名のアナウンスを聞きながら、空いた席にも座らずに車内を右往左往して景色を眺める。川辺に出るとすぐ赤い大橋。次で降りてしまおうか、もうひとつ先にしようかと毎度思いながら、毎度時間の都合で「紅樹林」下車。

 駅の西側すぐ目の前が、川辺の自然保護区になっている。岸辺に広がるマングローブ林には遊歩道が通じていて、陰るほどの樹下、波も立たない水面の上をゆく異様な経験をしたのは6年前。今は護岸工事中で歩道入り口は見当たらない。重機や資材の背後、対岸に大きい観音山616m、寝姿に見立てての名前だとか。

 ここから歩いて30分で目的地、淡水老街。その目的地以上に、そこまでの散歩が愛おしく喜ばしかった。目に入るものなど雑木や雑草しかないのだが、木漏れ日を透かし見ながら、長く緩やかに伸びる坂を登ったり下ったり、大して綺麗でもない川や水辺に出たり、騒々しく走る列車の音にむしろ耳を休めるような、静かで飾り気もない道を歩く穏やかさ。

 「何か探そう、見出そう」と心急く歳青いころにさえも、その静けさが忘れ難いものとして記憶を占めたのだと思い出す。「何も探さずにいられる安らかさ」こそ、皆詰まるところ探しているもの。そうと思い知る以前に駆け抜けた8年前、あんな夏の暑い日によくぞ出掛けたものだ。

 3月の初めでも歩いていると半袖で良いくらいの心地良い陽気、鳥の声様々、ほのかな湿度。撮ったものは雑木か雑草くらいのもので、本当に目に付くものも取り立てて書くべきものもない。そんな場所だからこそ足が向いたのか、と今書きながら分かった。旅に出て折しも10年。もうあれやこれやと体験や名勝や出来事やを求めていなかった。

 それでいて筆を執っているのは慣性か。「書かずにおれれば」と願いながらまた書きに出た誘因は行き会った書生らと、あの震災から15年目の日が近いこと、そして今まさに再び祖国が”戦前”を迎えている情勢。

 山場もなし、30分もするとほどよい脈と体温で港街、淡水の文化園区に入る。17世紀の欧州統治を経て、島内最大の港となるほど栄えたという。その面影残る「殻牌倉庫」の赤レンガや廃線の鉄路、取り残されたようなトロッコが、緑の木漏れ日に和やかだった。南国の雄々しい樹々、泥がちの入り江に傾く漁船、水辺に竿振るう釣り人たちが数名。河口の川幅は1kmほどにまで開き、対岸の観音山が全容を見せて一層味わい深い。

 駅前公園まで来るとうるさくて、何も撮らずに早足でゆく。自前のスピーカーでカラオケだの、フォークダンスだか太極拳だか分からない人々だの。天気もほどよい日曜日とあって人出も予期した以上にあった。水辺に向かって開けた景色、木陰に座って海山空を眺めるのにとてもいい場所だ。人を呼ぶ穏やかさなのだろう。

 淡水老街入り口海側、”持ち手のコーンの3倍以上も長く伸びるソフトクリーム”を売る店が今でも並んでいる。それを見る度、12年前に弟が買ったそれを思い出すのだった。そうだ。そういった思い出にも通りがかろうと、この日5度目の淡水に訪れたのだと思う。そしてもうひとつ、淡水老街入り口山側、駅前広場のつましい催事を見に訪れた。

「第15回謝謝台湾」との標題掲げたステージを中央に10ほどのテント。東日本大震災時、台湾から寄せられた多額の義援金に謝意を表する、日本側の団体主催の交流イベント。中文の展示や関連書籍、備蓄用保存食の実物や南三陸町長の字で謝辞の書かれたスケッチブックなど並んでいる、半世紀も前の歌謡曲が掛かってダンスが始まる。

 曲が止むのを待ってから一人の書生に声を掛けると、驚いて手を取り握手に。有志で係手伝いをしていた現地の教え子、その学友ら韓国や香港からの留学生もそばに。展示の準備や当日の写真撮影を担当していたそう。皆日本語が達者と聞いていた。異国の言葉で学びながら更に異国の言葉にも通じているとは、不思議なものだ。会の様子はどうかとひと言労い、そうそうに「ではまた明日」と手を振り歩き続ける。こういった課外に教え子の立つ機会には撮りに出る。年始に獅子舞だ、夏に祭りでバンドだダンスだ、楽団で伴奏だ、と思い返せば様々の縁。反対に、自分の展示に教え子が来てたまげたりする。

 さて近所は並ぶ看板、緩やかな坂とカーブに沿って土産物屋や、蒸籠の積まれた飲食店、店先で焼き菓子を作っている店、荷車引いて路上に蒸気を昇らせながら餅だかパンだかを売っている親爺、買う客、行く客、来る客その他で毎度のとおりにぎわっている。そのまま進めば様々の歴史を有する建造物が多数。

 1646年、オランダによる改築の上完成した「紅毛城」は台湾最古の建築物。1628年、スペインによる港湾貿易のための植民地統治を強化すべく建てられた城塞が前身となった。

 1890年にカナダ人医師・宣教師のジョージ・L・マッケイ博士が設計したというゴシック礼拝堂。海辺にも辻にも彼の像を見掛ける。土地の布教や医療・教育に貢献し、近所の大学や台北中心部にある記念病院も創設した人物だそうで、頻繁にその名を見聞きしていた。

 1934年に台湾全土で最も早く水道が引かれたという、日本統治時代の故居も。

 全部無視。すぐに海側に折れて海辺の遊歩道を歩いた。おびただしい数のしゃぼん玉を放つ幼児、串に刺さったあれやこれやを食みつつ行き交う青少年ら、露店を据えて装飾品を売っている者、描いた似顔絵を列べて客を待つ画家、マイクや楽器を手に歌う歌手、眺める人々。トルコアイス屋の親爺がまた12年前を思い出させる。人の集うところに氷菓の店が並ぶのは、愛だね?温暖な国ならばなおのこと。

 土地土地、最も立地の良い珈琲屋は総じてスターバックス。店先の波間に揺れる木の葉やごみを撮っていたら背のほうから喚き声。となりの小さな浜の中央に、畳ほどの黒看板を立てて、砂で薄汚れた中年の男が声を荒げている。

「3分で仕上げるッ!さあ観てゆくのだ諸君ッ!!」との大声に中々の人だかり、錆びきったキャリー、積んだ車用バッテリーにスピーカーを繋いで曲を流し、筆執り始めに見得切る仕草、黒い画面に向き直ると白い線、何をしているのやらまだよく分からない。

 しかし最後の30秒で、突如「もしや」と思うような陰影が現れる。仕舞いに筆を宙に振り投げ、キャッチは失敗、画面を逆さにひっくり返すと帽子と眼鏡の男性の顔、この日の日付2026.3.8。「ちょいとそこの旦那さんッ!こちらへッ!!」と、そばで見守っていた男性が呼び立てられて絵の前に立たされる。なんと人垣の中の一名を描いたものであった。

 本当に3分だったのだが絶妙な濃淡と、相容れない大胆な筆の走りで最小限の手数。思い込みの補正も有るのか随分と写実に見えた。絵に並ぶ彼を、お連れの方はじめ一同が記念に撮影。

 人垣を大きくしたところで曲を変え、黒い画面をもう1枚重ね直してまた見得を切る。3分で終えて逆さに返せば、古い映画の名俳優が2人描かれ、ああなるほどとの歓声が。深々と頭を下げて銭を乞う描き手。まんまとのせられた。5秒、10秒、目に留めさせれば3分、6分、好奇興味の答え合わせに足止めできる。それも工夫だ。”SEBVEN FAN”との御名前で動画を出しているそう。

 こんなところでライブペイントに行き合おうとは。以前なら足を止めなかったかもしれない。思い出ではない、そんな変化にも通りかかる。変化と言えば見渡す河口に巨大な橋が架かっている。右岸寄りの橋脚主塔から美しく弦を張るハープ橋。

 有ったのか?いや無かったはずと昔の写真を見返すと、2年前には橋脚が建てられ始めている。視界にも写真にも入っていたのに、この日掛けられたその姿を目にするまでは橋脚になるものとも知らないでいた。さっきの絵の描き出し、まだ単なる白い線に過ぎなかったそれのように、全体像を観てやっとそれぞれの部分の意味が分かる。まるで人生だね?

 遠い橋を背に、岸の近くを寄っては離れ寄っては離れ舞う白サギ。水上にまで枝葉を伸ばす木々の下をくぐるように川沿いを進めばほどなく漁港に。波止場で写真を撮る人々を、離れて写真に撮るのが恒例。あぐらで3人並んだ若者。ババア2人が大の字ポーズで互いを撮り合う。足を投げて座るたそがれ親爺。めかした赤子を舫い柱に座らせて機嫌を取る母。水面に揺らぐ小舟と雑草。サッカーコートほどもない漁港を取り巻くようにカフェやドリンクスタンドが並んでいる。テラス席や堤防に腰掛けて足を休める人々の賑わい。自身も空腹に急かれた。補給に梅でも携えれば良かったと思う。

 小一時間もせずに日の入りという頃だったが、待ちもせずに街側に折り返して駅へ向かった。淡水藝術工房という画廊では空撮の風景写真が展示されている。小道の坂を登って退勤する風船売り。駅前広場は暮れ始めてやや暗く、人々は返す波、対岸麓にも街明かりが見え出していた。岸辺にはいままさに釣り上げられんとする魚を見守る人だかり。2人組みの釣り人が網と竿とで見事40cmほどの1匹を釣り上げて即リリース。余韻とかは無いのか?

 改札、階を上がって乗り込む列車の窓から見渡す山がまた格別である。滑り出すごとく過ぎ去る風景を見送って、赤い橋も見送るともう撮るものもなくひと息、空いた席を探して足を休めた。20分もしないうちに下車、気づかぬうちに夜になっていた。

 近所の製菓店で焼き菓子を1つ。帰宅してシャワーを済ませ、今朝食べていなかったいつもの朝食を用意する。ミューズリー、チアシード、豆乳、ヨーグルト、バナナの輪切り、きな粉、亜麻仁粉、摺り胡麻、練り胡麻、ピーナツバター他。キャンドルライトとともにゆっくりと。誠に久しぶりの、沁み入る休息だった。長らくどこへとも足の向かなかった外出を、思いのほか楽しんだ。2時間で300枚弱。人に見せるような写真の有無に関わらず、草木や景色を眺めて歩くだけで気の晴れるものだ。いつからか目的や方法がすり替わっていた。

 秤にミル、昨日買った珈琲豆ブラジル20gぱらぱらころり、ゆっくり手で挽くがりがりぐるぐる、紙のフィルタにぱさりさらさら、新鮮な香りがふわり。お湯320mLぐつぐつ、ケトルからドリッパーに置き換えるようにくるくるこぽこぽ、泡ふつふつ、静かに注いで待つ穏やかさ。ぴとぴとと滴る淹れたての珈琲。皿にフォーク、さっき買った焼き菓子は胡桃とレーズンのタルト。それから4時間ほど音楽を聴き続け、前夜のごとく夜更かし。


 2、詩歌  2026年3月9日 月曜日

 昼頃マラソン、帰ってシャワー、柔軟など済ませて写真の整理。100枚弱になったそれらをタブレットに取り込んで出掛けた。昨日訳した漢詩二首について、昨日ひと目会った書生と会合。「催事はどうでしたか」「余り大きな目的の無いイベントでしたが、人は沢山いらっしゃいました」

 当時世界中から寄せられた震災義援金に、謝意を表する新聞広告を本邦主導で各国紙面に200近く掲載したそうだが、中国との関係に遠慮して最大の額を募った台湾には掲載しなかったそうだ。見かねた有志が代わって行ったそう。主催の団体名が酷似しているれけど、昨日の催事が関連するものかどうかは知らない。

「スピーチコンテストの原稿を書いたのですが、見て頂けますか」

・中国語古文の、現代にはない漢字の用法が、日本語には残っていること。

・漢詩の情景や作者の思いが翻訳の過程で失われ、正確に伝えられないこと。

・和歌の形式を基に、諺や慣用表現等の言語的背景の違いを乗り越えたいこと。

 以上を課外の研究主題として追究したい旨が綴られている。日本語を整え、意味の齟齬が無いことを確認し合う。範読を録音して渡し、アクセントを記入、原稿有りでひと通り練習。「ありがとうございます、毎日練習します」「とても楽しそうな研究課題ですね」「いずれ故事を書物に著したいと思っています」「そういうときは直ぐにやってみたほうが良いので早速やってみましょう。ちょうど昨日二首用意しました」

 アタマ・口先で理屈や情報にすがるより、ブーツを履いて歩き出せ。以下を見せるとぱっと声明るくし、「とても懐かしいです、小学3年生のころ皆で暗唱しました」と馴染みの様子。日本では『私と小鳥と鈴と』など学んでいる頃。


 于武陵『勧酒』 

    勧君金屈巵

    満酌不須辞

    花発多風雨

    人生足別離

 井伏鱒二先生訳

    コノサカヅキヲウケテクレ

    ドウゾナミナミツガシテオクレ

    ハナニアラシノタトヘモアルゾ

    サヨナラダケガジンセイダ

 n訳 この日こがねのこのさかづきに

    こぼれるほどにつがせて下さい

    さくらの盛りを惜しむあめかぜ

    あなたのかどでを愛おしむため


 張継 『楓橋夜泊』

    月落烏啼霜満天

    江楓漁火對愁眠

    姑蘇城外寒山寺

    夜半鐘声到客船

 読者訳(           )

 n訳 月沈みくらき夜空に啼く烏

    冴え冴え霜の兆しに満ちる

    水際の揺らぐ紅葉と漁火に

    旅わびしくて寝ても眠れず

    蘇の町の外れに寒き山寺の

    か細い鐘の音いまだ夜半か


 漢詩、近体詩の五言絶句と七言絶句。二字と三字の五音、四字と三字の七音で文意を構成。倍の長さの八句になるとそれぞれ律詩、十句以上のものは排律。どれも句末の脚韻や、音の上がり下がりの平仄(ひょうそく)排列、三・四句目が成す二聯以降の意味的な対句が定められている。音数のみを定める和歌と比較すると、全ての決まりに則って一首仕上げるだけでも困難に思われるほど複雑で、音楽的要素が濃い。和歌を”作詞”とすれば、漢詩は”作詞作曲”だろう。

 高校時代に授かった漢詩の授業が、大事な何かを欠いたまま行われていたことを思い返す。教授下さったのは年に100冊も読まれるという読書家の先生で、日頃から自分たちが飽きないよう様々の工夫をしてくださっていた。それでも漢詩については書き下し方読み下し方、当たり障りのない現代語訳と教訓めいた解釈以上のものを得られず、自ら求めるほど熱心でなかった己の不徳がとどめとなって喜捨。指導要領からも消え去ろうかとの憂き目にある昨今。

 あたかも歌曲の楽譜を目で読むごとし。耳で聴かずに何の意味があろうか。アタマには歌が味わえない。ハートに届かないものなど、まるで成分表だけ渡される誕生日ケーキ。

 ・・・いままさに目前で、初めてネイティブに詠んでもらうと、それはけだしオペラであった。情景を響かせんばかりに選び抜かれた抑揚と韻が、人生で初めて眼前に再生された。上海時代に旅行した水郷地帯がしみじみと思われる。

「一字一字に、投映させるべき情感や風情の違いがあります。”冷”の字ではなく”寒”の字なのは、孤独感を伝えるためです。」

 ・・・「レ点」「一二」「上下」「甲乙」「天地」「6、1,2,3,5,4,7,8・・・」「読み下しは・・・現代語では・・・」未だオペラを味わい知らず、譜面の解釈ばかりでいた頃。そもそもの背景がまったく異なっていたことに、全く気づかないまま同じ言語の地平と思って眺めていた。

「日本でも漢詩を学びましたが、平仄や押韻については言及されませんでした」「それはありえないことです、、なぜですか?」「教師らも知らないのだろうと思います」「では漢詩の何を学ぶのですか?」「”錦の裏地を見る如し”といいます」

 何の因果か使う予定もなかった中国語をパクパクかじり始めると、「そこ脚韻だよ」と”メロディー”の存在を噂に聞く。それからオペラを志し、気づけば台湾・上海・シンガに二度目の台湾移住。中国語圏に数年数都と暮らしてやっと、日本語の領分では捉えられなかった『漢詩』の奥行きを見た。

 何の因果かいま相たいしているこの書生、まさしく足りていなかったそれを運ばんと志したひとり。大学に入ってもなお、語学の為に週に3度も課外で教えを乞う熱心。大学では専攻を二つに増やして漢和両方の古文を研究しているというトライリンガル未成年。

・・・意志あれば道あり、熱心な生徒は必要な師に巡り会う。銀河系で最も多く長く和歌を詠んだのはわたしちゃんである。僭越ながら大変熱心である。甚だ僭越ながら銀河系最長記録。そんな生徒でもあり、また師とも頼まれることを、うーむ。楽しむ。教わること、教えることの妙味を返す返すも思うのだった。

「『月落』を”月沈み”とする直訳は詳しいですが、日本語として味わうならばもっと隠れた意味を補いたいです。この部分のみにではなく、以降にも引き続いて『悲しみ』を平均的に表現するよう気をつけなくてはなりませんが。だから”烏啼く”という字面に『嘆き』や『悲鳴』のような想いを含ませることも必要です。また、漁り火を見るのは街であるから、紅葉を見るのは美しく華やかな場所で、そのような温かい暮らしを羨んでいるからこそです。家族を想わずにいられない。そこに寒さと孤独の極まる山上の寺の鐘が鳴る。寒さにひしがれて、心細さに志が折れてしまう。・・・」

 嗚呼。なるほど。夜空を照らす月明かりはついえて、目指すものを失った暗闇の中、一層黒い烏が寂寥に泣く。秋と分かるのに、今しも厳しい寒さが身に降りかかろうとすることを予見して眠れない。水に漂う足元のおぼつかないこの客船から、己の属しえない地に足の着いた華ある街の暮らしを、科挙に失敗し高官を得られなかった失意の想いで眺めている。

 おお。全く奥行きが分かっていなかった。かつて愛したあの美しい水郷の風景が、夜に、寒さに、孤独に、憂いに、失望にやられながら、夜も眠れず眺めていたものであったなら。世間を追われたように離れた寺の鐘も、暗い夜、先は長いとばかりにか細く響く。

 ・・・詩は感情の”表現”を求めていない。感情からの『離脱』こそを願うもの。もはや何にも叙述を要さず何にも感じ入らずにいられたならば、どれほど平和で穏やかだろうか。美しい夕焼けが”何も”意味していないように、何も述べ立てず意見は不要で書く必要も無い。”感情に過ぎないもの”から解放されている状態。それは至福として経験される。

 歌も書物も表現も、そのほとんどは子守りのごとし。不満に喚く感情や欲望をあやす。意欲や理知の行使する先を求めて形を成す。願ったとおりの形になる。・・・毎度そんな学びを得られる会合で、興味尽きない。『勧酒』の名訳と言えば井伏鱒二先生と信じて疑わずにいたが、まだ自分には吟味しきれていないだろう。

 さて明くる日もこの短編に、「書かずにおれれば」と想いつつ、、筆を執らんと茶店へ。家を出るとイヤフォンが見当たらない。さらには繋げた充電器もない。一度部屋と鞄を改めたが無い。贈り物に戴いたそれと、今この記録を打ち起こしている端末には専用で使う以外に無い充電器。まずいね。とはいえ全く出掛けていない身の上、心当たりはいつもの店か。焦るべきかどうかもさておき、こんな時に詠まれる短歌が古くからあると、書きながら知って誠に面白い。

   清水や音羽の瀧は絶ゆるとも失せたる針の無きことはなし

 ”針”を”もの”だとかなんだとかに読み替えて捜し物をし始めるという。清水や音羽の瀧は絶ゆるとも失せたるワイヤレスイヤフォン及び充電器の無きことはなし。あった。この日も来るつもりで来た茶店の机に、昨日から挿さったままだった。充電も済んでいたので次に電話を充電。清水や音羽の瀧は絶ゆるとも失せたるアイフォーンの無きことはなし。落ち着いて探し始める工夫としても伝わる。

 何事もなかったかのように調べてみると、その他にもよくぞこれほど詠み継がれたものだと感心するほど、様々の願いを宿された歌がある。古来の素朴な生活と、人々の素朴なる願い、人の心の機微を手渡されたかのように感じ入った。まさしく願った通りの形だ。それらの中に、以前聞き知った最も好みの一首を見つける。

   弘法は旅の衣に急がれて着せて縫うのも目出度かりけり

『西行は』とする地域もあるそうだが、着せたまま縫うと言えば死装束、死者への弔いで、縁起としても安全の面でも好まれない。それでも生活上そんな必要があった場合に、褻(ケ)を祓う想いでこの歌を詠み、ほつれた袖だのボタンだのを縫ってあげるのだという。

 自分自身のこころ急く死出の旅の身の上と、いつも着ているお気にのオシャオシャ死装束とを顧みるにつけ、誠に目出度い想いで味わわずにおれない歌。

 それら裁縫に関わる短歌を三首選んで手書き、時代的背景や意味を補って次回紹介の資料とする。

   あさひめのをしえはじめしからころもたつたびごとによろこびぞます

 近代まで、裁縫の技量は女性の人生を左右することもあった。上達を願って鯨尺という和裁用物差しに墨書きされていたという短歌。昭和初期の実物も資料として残っているらしい。

   からくにのあられえびすのきぬなればときをもひをもきらはざりけり

 六曜や二十四節季、四十九日や百日祝い、”日柄”といった概念が現代でも残っている。十干の10通りや十二支の12通り、干支60通りが方角や時刻、暦注や歴史的年号として用いられ、生活の指針としても頼りにされていた頃。布を裁つにも爪を切るにも、時間帯や日柄を選んで行うことが慣習、習わしであったという。確かに「夜に爪を切るな」などと聞いたことがある。夜の口笛は道教の降霊術に倣って忌避されると、本場台湾で知った。

 上の短歌も、そのような日柄や習わしの都合に合わない場合に、作業前に詠んだり、紙に書いたり、物差しに書いておいたりするまじないだったそう。

 その他にも虫除け・蛇除け・犬除け・火事除け、雷除けや地震除け、早起きのため、怪我や病を癒やすため、服に付いた墨汚れを落とすため、酒樽を開ける際の祝いのために詠まれる短歌などもあった。そういえば『君が代』も短歌。

 関連して”シ”の音が忌避されるのは和英中とも共通。「四」や「13」などの数が避けられがちであることは、婚礼等に利用されうる宿泊施設などで顕著。日本では婚儀で”分かれない”奇数を頭に用いるが、中国語圏では逆に偶数。配偶、偶数、喜び倍となること願って。スーツを着て出席したら新郎と間違えられるのでTシャツを、などなど。

 自分が長らく当惑しがちであったのは、中国語で身内にこそ丁寧語なを使い、見知らぬ人にこそ”馴れ馴れしく”話す場合。それは親切心からであって、客や他所様に丁寧語を用いるとむしろ「建前ばかりで真心のない印象」を与えるとか。

 日本語は一人称を変えるだけでも「立場やシーンを分ける」ことが出来るくらいに、”上下”や”縦横”、”ウチ・ヨソ”を隔てる機能がある。敬語、丁寧語、内輪言葉など。初対面や門弟の分際で馴れ馴れしい言葉、俗言を以て語り来る者どもは基本的に殺してきたので、日本語の言語環境は概ね良好であった。英語にも敬語があり、フォーマル・カジュアルの別が想定した場面ごとに適用されている。しかしそれらは自分が想定した通念で、親切心の為に討ち死にを遂げた輩もあったのかもしれないと、ご近所台湾・中国で知る。やや反省。

 詩歌に、遺失に、異文化の異なる習わしに巡り会い、書かずにおれない事柄だけでもと想いながらあれやこれや。


 3、書生

 わざわざ短編などとの題にして書き残したいと思ったのは、そんな学びや反省が累積し熟したため。実足で歩む現地での経験や交流、中でも語学の書生らとのそれは有意義だ。教科書で字面を見知っただけの”歴史”や、単なる記号に過ぎなかった事象が、渡航後早々に実体験として示される。

 ・・・愛する教え子勉強仲間の婚礼に合わせて再度の移住の日を決めていた。行ってみるとご親族多数。齢九十を超えてなお御自身の御御足で御歩き遊ばす御祖母様に、もうひと方参列の邦人が日本語を以て語りかけると、しばしの間を置き突如思い出した日本語での返答を始めた。・・・

 占領時代の呪いか名残か、同化政策、支配は言葉を以て始まると痛く思い知る。以前から、上海には無い日本語の名残が台北にあるとは感じていたが、戦後80年、実際に、未だに、異邦の一人格の行動・反応のパターンにまで残っているものとは。全く実感に無かった。

 以降も度々、二次大戦中の貴重な逸話を伝え聞く。

 文筆志したる件の書生と、互いに書物を持ち寄って見せ合う機会があった。わたしちゃんの方はノート20冊に、角背並製本の大僭越銀河系最長など見せると食い入るように目を通していた。「先生これは」「それは家計簿のページ」「先生これは」「ええと展示の持ち物リスト」そこやないねん。

 対して、彼の祖父が著したという『三國人物選録』。丸背上製本、著者には書生と同じ姓。ハードカバーの表紙をめくると本文から外れかけているほどの古書、「中華民國六十九年元旦初版」即ち西暦1980年、昭和55年の出版。間もなく半世紀も経とうという書物が、親類の著したものであるという感覚は、いかなるものであろうか。魏に曹操、蜀には劉備、呉に孫策らを初めとして聞き知った武将や皇帝の名が連なる。「自分もいずれ同じ題で書きたいのです」と、己の孫に言わせる感覚は、いかなるものであろうか。

 その著作者たる実の御祖父様がどんな人であったのか、その後聞いたところでは先ず山東半島の出身であったそう。・・・「いち、にの、山東半島」と大陸海岸線を黒板に、番号を振りながら所在を教えて下さった恩師を思い出す。1に遼東半島、2は北京、3こそまさしく一次大戦に乗じて1914年9月2日、日本軍が初めに侵略占領した国外領土。

”領土”と言えば実感は無い。その実それは街道、店々、家々連なる、生き身の人々の「暮らしの場」。近所の公園、いつものあの店、日頃の往来。

 その後1922年2月のワシントン会議九カ国条約締結、同年の軍撤退までの間、現地権益や各地の租借権を獲得、中国にとっては「国恥記念日」にも残る、長らくの反発や対立を来す国際問題の端緒となった地。のみならず、日中戦争1937年7月から敗戦1945年8月、投降の12月まで、再びの占領を被った土地。

”それ”が誰ぞの故郷であり、出身地であり、暮らしの場であったなどとは、教科書からは全く以て窺い知ることのなかった。字面では決して伝わらなかった実感。その実感が、ただ単純に眼前に、その土地の人の子孫や著作が存在していることによって明かされた。

「実在」以上に明白で、納得をもたらすものは、ない。成分表や譜面や字面では味わえない。異様な、これまでに味わったことのない感覚であった。書かずにおれず、いま書いている。「書かずにおれれば」などとは思いもしない。

・・・故郷を追われながらも政治に携わり、二十歳の頃に政務で訪れた上海外灘、英国租界から、長江に注ぐ黄浦江対岸に、今しも同胞を討ちつつ攻め来る日本兵ら。鬼神の如き侵略の様を見たという。非を叫ばずにはおれなかったそう。そこはまさしく私の最も愛したあの場所。在住の折、毎週のごとく散歩に出掛けたあの川沿いの並木道。そよぐ風に、木陰の花も木漏れ日も揺れる。川を行く船を眺めつつ、読書に珈琲に長い時間を過ごしたあの場所。・・・

 いま目の前にいるこの教え子に、血を分けたるその”誰か”が、もしも流弾ひとつ、榴弾ひとつ、捕縛のひとつ、被ることなどあったなら。80年後のこの日の自分が漢詩の深みを授かることもなかったかもしれない。つい先月、旧正月には御祖母達と過ごしたというが、「お祖父ちゃんの遺影の前では日本語を話してはいけないよ」と釘刺されたとか。・・・戦禍を逃れて台湾へ移るもまたの占領、銃剣構える憲兵に顎で遣われ、実の名を捨てて日本語名を名乗り暮らさねばならない頃もあったそう。

 一方母方の御祖父様は戦時中日本にも暮らし、歯科医生として日本軍に仕え、終戦後台湾に帰国するまで自身を日本人であると思っていたそうだ。その頃の医学書といえば全て日本語で、語学も堪能であったという。占領時代、台湾にもたらされた近代化や法整備の恩恵を厚く尊んでおられるそう。

 当時の家宅の全ての部屋、居間には大判で、昭和天皇ヒロヒト肖像が据えられ、それが未だに蔵に残っているとの話に驚く。「天皇御賜大日本帝国優良国民乃証」なぞという賞状まであると聞いてたまげた。同化政策の一つに、和名や和装、和式家屋を導入することで配給を優遇するなどというものが有ったそう。

 過度に一般化すれば、大陸からの移民は日本への同化や支配を怖れ、島内出身の者は統治者が誰であれ得と見て進んで享受したという。

 それら二つの血筋の間を生きる書生。

 

 旅10年。人と出会い、人と出会い。時勢に急かれて思い返すのは。

 例えばイラン出身で、義務教育をほとんど自宅のテレビ放送で受けたという人。もちろん戦時中であったため。本場北米で英語教師をしているというから、相当勤勉なのだろう。また、ウクライナから北米に移住したという青年は「祖父母宅直ぐそばの土地がロシア軍に占領された」との言。それが10年も前のことであり、以降の情勢は誠に思いやられる。知人の日本人女性の夫で、育児の最中。以前は他人事でいられたのだが。

 例えば東京生まれ、NY育ちの日系人青年。若くして大麻や色に溺れ溺れて空虚さに絶望する中で、信心を得て回復し、伝道・美術に携わっているという。同じくNY出で柔道に青春全てを献げたという白人男性は、日に三つの道場へ通ったという。「指も腕も脚も全て柔道に献げたが、五輪でまみえるべき古賀には届かなかった」と毎度悔しがる。あの大都でも母国の武道がこれ程熱心に稽古されていたと知る。

 例えばカヌーで立ち寄り一晩過ごした、ネイティブアメリカンの古村。「母がその村出身なのよ」と、後に出逢ったインディアンの末裔が言う。こんにゃくがマイブームだそう。我が家の書棚に並んでいる、自分も読んだ旅行記作家の知り合いで、本にも登場するほどの懇意だった。なるほど誠に、旅も書物も文筆も、するものだ。

 本当に様々の出自や生い立ち、文化的言語的背景、来歴のあることを思い知り、縁の妙味をしみじみと想う。分けても今、この書生のそれには、地理的・歴史的経緯を振り返らずにはいられない。

「文化費で『源氏物語』の翻訳版を全巻買いまして、今読んでいます」文化費とは?

「行政からの補助として、18歳以上の全国民に毎年支給されます」媒体や用途は?

「QRコードで書籍の購入や映画鑑賞の他、文具や美術館の入場等にも使えます。年1200元です」約6000円、文化的成熟やその手の産業を後押しするものか。

「その『源氏物語』を訳したのが自分の大学の先生でした」まさしく教育者、研究者、創作する人々への直接の支援にもなっているようだ。

「短歌の魅力が実に大きいです。短歌を詠むときには想いの精度が高まります。それこそ人々が短歌に憧れる理由です。何でも、いつでも、思い付きも言い伝えも、五七五七七の形式に、生き生きと表すことができます。内容が少ないのではなく、込められた想いが、少ない文字の間にまだ流れています」げに。さだめて紫式部も聞きて喜ばむ。

 いずれ日中台米欧の橋渡しを、意図せずとも担うことになる人物と分かる。こういった情熱や理解や人々の献身が、自分の育った土地の文化や言語に向けられている。知らず知らずのうちに。

 もしも反対に、一切の国際的理解や支持が寄せられず、災害時の支援や原油等取引にも価しない国となったなら。知らず知らずのうちに。自分たちが全く興味を持たない国のように。

 というのは。それが決して起こりえないとは確信できない情勢にあり、実際にそういう国として一度焼け野になっているから。・・・先に”もはや戦前にある”と書いたのが、綴っている間に”戦中”となっており、日本語を公用語とする国が、公式に参与を表明しているから。

 かつての戦前、”Made in Japan”は文字通り”ジョーク”であった。”シナ製”と同義だ。「信頼の証」となったのは、全体主義的欺瞞の末路たる焼け野で反省にこうべを垂れ、帝国主義を手放して異国に学び、戦後半世紀を経てのこと。

 それでもまだ、”敵性言語”という概念が、英語を禁じた大戦中の昔話ではないと知ったのはここ数年。現代においても未だ、自身の内的な嫌悪感や罪悪感の投映先として選択される。ウクライナ侵攻が顕著になるにつれて、市中のロシア語案内表記に苦情が寄せられ撤去された例が記憶に新しい。朝鮮語源の語尾や響きの特徴を嘲笑に用いる排外的な言動は、現代に至っても日本語の汚点として際立つ。

 言葉を用いているように見えて、その実用途は動物同様闘争のための言歯、言の刃。理解せずにおく免罪符。「何語が一番難しいか」と自ら問うては皆母語こそが、己の国の言葉こそがと誇らしい。自身が最も投資した先で複雑さを獲得するのは当然だが、どれもホモサピエンスの鳴き声に過ぎない。「何語が一番簡明か」「何語が一番美しいか」と問うても同じことだ。

 極端な例でないと思うのは、遣う言葉の違いが、人種や文化だけでなく身分や階級、グループの違いを反映する場合があるため。国語・母国語の中にもさらに分類や集団が表れる。”若者言葉””流行り言葉””死語・廃語””横文字””俗語・雅語””保守・リベラル””ネットスラング”などの、「属性を隔てる働き」。もとい「内的傾向・意図・性質の差異を反映した」語彙や口調や話法の選択。

 それはファッションにも似て、同じ属性や内的傾向の水準にある者同士を引き合わせる、ひとつのシグナル。同種の動物ではそんな分離や集合の別は起こらず、同じ群れを構成できる。人間には、動物にない可能性の幅があるのだろう。言語の別ではなく、動機の違い、志の差だ。

 その最大の分かれ目は、”嘲笑”と「正直」のどちらを選ぶか。後者はもはや「特権」であり、文字通りに天地を分かつ選択だ。「正直」な者に囲まれて過ごせることは「特権」だ。”嘲笑”を選ぶ者に囲まれて過ごさねばならないことは”地獄”そのものだ。排外主義者がそのどちらであるかなど、考えるまでもない。異国の小学校にミサイルを放つ”特権”は、どのような属性から揮われたのか。

 ペンも剣も、動物性に屈しているなら当てにならない。サピエンスのペンも、エレクトスの剣も、動機に仕えるだけのことだ。・・・モノを追っている限り、動物的動機から離脱できない。欲望を追い続ける者が決して満たされないように、知識や語学や詩や表現自体には、その範疇で生じる問題を解決できない。

 隣国の、詩歌の深み。母語に拝借されてもいる字で書かれた漢詩。それを知り得ず、学生の時分に顧みなかった反省。より広い「コンテクスト」を伝達できないと、”コンテント”の吟味や蓄積に終始して何も成熟しない。この反省を、異国語を授け授かる立場にいる間に活かさねばと思う。

 より自由なコンテクストは、言語や理知を超えている。文筆を志すことは、文筆の限界を悟って手放すため。詩も表現ではなく離脱を求め、それ自体は目的にならない。しかしそのこと自体に気づくのに、ヒトの生き身を必要とし、筆や語学や表現を要する。「要らなくなったら手放せば良いこと」、「手放せなくなるほど執着すべきでないこと」を、自身の実足を以て伝えるほか無い。

 弱冠20万歳を迎える”考える人”「サピエンス」に紛れて、言語を去った「静寂」に辿り着く存在が稀に誕生する。闘争にも思考にも”飽きた人”。命名「ホモフェデプス」。系統樹の新しい枝先を実足で踏み耕す人。それは理知にも科学にも描写にも依らない、存在の芸術。ヒトの身体にすら飽きて、もはや死生に差異を見出さない。

 カメラに着けていたストラップとグリップベルトを取り外す。写真撮影向けの設定を消してゆく。・・・母国で携え東へ西へ、津々浦々を撮り歩き。北米大陸西へ東へ、横断往復撮り歩き。南米大陸東へ西へ撮り歩き。欧州アフリカ三十三国撮り歩き。台湾・大陸・半島の先の中国語圏を撮り歩き。地球を一周東回りに、更に一周西回りにも撮り歩きした10年の旅、ずっと携え歩いてきた機材。ストラップに刻まれた傷み、本体に刻まれた傷やかすれ。一つの青春がまた静かに済み、役目を終えるごとくに感じ入った。

 ここまで、語学にも及ぶ伝達疎通の方法として大いに役立った。この先も異国の言葉や生活様式を尊重し、新たな学びを求められるか。異国に身を置き暮らす機会を活かせるか。あまり自信はない。・・・自分に無いとしたら。もう日本のほぼ105%の人に無い。なので、書き起こして共有できる形を備えておく。何かの役に、きっかけになることを願う。

 書は書を去るため。身も身を去るため。撮らずにいられればと願ったように。

 理知はその限界をこそ知るため。子育ても子育てを手放すため。不要と納得させるために、それ自体を要する。ここ数年のテーマ。理路整然と常軌を逸した表現。表現を去るための表現。

「書かなきゃー」などと思っていた『旅日記短編台南高雄台湾』に先だって、『台北』の方を書いてしまった。しばらくはもう本当に何も書きたいと思えない。書かずに、撮らずに、出掛けずにおれればと切に願う。

 2026年3月31日 台北