五月三一日(火)晴
七時に起きる。一〇時間睡眠。寝具を干して、ゆっくりと朝食を準備する。炊飯、野菜炒め、果物。美味しい。九時前、向かいの施設へ。カメラを一台。一番奥の環境センターから回る。ごみの分別やエネルギーの生産・消費、水源と水の利用などについての展示や資料等が揃っていた。言ってみればありきたりなものだ。子どもの学習に使う程度だろう。そんな印象だった。施設の奥の出入り口から外に出る。入り江側の丘の上へと続く階段。上ってみると、サッカーボール大の銀の球体が一面に転がっている。「水銀」の象徴だと思った。その一つに近づくと、自分が映っていることに気づく。景色の開けたその丘の上は、千枚田のようにいびつな階段状のスペースが重なっていて、海に向かって低くなっている。その海に向かって今にも銀の球が転がり出すかのような心象を受けた。正面には、水のヴェールで覆われたガラスのオブジェクト。その膜を通して八代海を眺めた。静かだ。心が鎮まっていたのだ。陽は温かいのだが、しかし、何か背筋の冷えるような想いがあった。
モニュメントの丘を下りると水俣病資料館入り口正面。入館。すぐ横の壁から展示が始まっていた。古き良き水俣の漁村の暮らしや、漁の道具、漁業の進歩について、実物も交えて語られている。とてものどかなものだった。職員の方に資料館の案内の紙を渡され、「どちらからいらしたのですか」と訊かれた。どこから来たのだっけ。唐突に訊かれて、長らく戻っていない地元の名が出てこなかった。昨日どこを出発したかなど、もちろん訊いていないだろう。間を繋ごうと声を出すが答えが出てこない。「どこからというとえーと。今旅の途中なのですがー。」「ありがとうございます、どちらから?」「えーと。東京、八王子市からです。」これは借りた車のナンバーだった。「八王…?、えーと八王区ですか。」「八王「子」市です。」「八王子区ですね。」そういって、来館者の記録を記入用紙に書いている。「(「区」だっけ)…は、い。」「ありがとうございます、映像の展示もありますので、ごゆっくりご覧下さい。」ちなみに八王子は「市」です。それにしても、唐突とはいえ地元の名が出なくなるとは。地元愛を養わねば。
振り向いて次の壁面資料に移ると、一九〇〇年台初頭からの水俣市工業化のはしりと地域一帯の大々的な発展についての記述が始まる。日本窒素肥料株式会社、通称「チッソ」の隆興と、それに伴う人口の急激な増加や工業地帯の拡大、近代化の流れ。めざましい経済発展を遂げたチッソと水俣市が日本をリードしていく。足元には、工場で実際に使用されていたという大きなガラスの薬瓶。好景気とは裏腹の不安を思わせるものだった。
巨大な、けがれた排水口の模型があり、その床面に異様な液体の泡波立つ映像が投影されている。百間排水路模型。当時の住民の証言で再現されたものだそうだが、これが実際の川に向けられていたとは到底思えないような色だ。また、大きな瓶に採取された汚染ヘドロの実物も展示されていた。筆舌に記し難い忌々しさである。チッソがアセトアルデヒドの製造を開始してから、触媒として使用していた水銀が海に流出していく。
「猫が踊った、鳥が落ちた、魚が浮いた」という題字で始まる次の壁面。一九五三年頃より漁村に異変が現れる。猫が狂いだし、仕舞には全滅してしまったというのだ。これでもかというほどに跳ね回り、のたうち回り、転げ回る猫の映像。反対に「ねずみがのさばって手に負えない」と行政に申し出る村民の記事があるが、猫の死因は分からないまま。近くの海で魚が浮き、手で穫れるようになった。貝や海草も浮いてくる。鳥は狂った飛び方をしだし、水面に突っ込んだり、地面に激突したり。そしていよいよ漁民の中にも、異様な神経症状を呈する者が現れた。一九五六年のことだ。手足の痺れや感覚麻痺に始まり、視野狭窄、意識混濁、極度の痙攣。患者がかきむしったという病院の壁の写真。中には自らの片腕を、もう一方の手でかきむしり、皮が削げ、肉も削げ、骨まで達していたという家族の証言も。これでもまだ原因は分からず、赤痢菌による感染症ではないかと考えられていたという。当時水銀を正確に検出・分析する技術がまだ存在していなかったのだ。チッソ付属病院の院長細川一氏は、猫を使った実験を続け、水俣病が工場排水の影響であることを確認した。しかし、工場の責任者はその公表を禁じたという。熊本大学の研究班も、数ある有機水銀のうち「メチル水銀」が原因物質であることを突き止めたが、東大医学部の反論にあうなどし、原因の特定や対処がますます遅れていった。
チッソは、原因物質と工場の排水の因果関係を否定し、漁民には不漁の「見舞金」を、今後一切の訴えを起こさないことを条件に支払う。「今後水俣病の原因がチッソにあったとしても」という内容が、契約書の写しに、ありありと書かれている。「賠償金」ではなく「見舞金」であったのは、「水俣病を発生させた」ということにではなく、「漁業に支障を来した」ことに対する補償をするにとどめる、という姿勢を表すものである。また、見せかけの排水浄化装置を設置したことで、世間の中では企業と村民は和解、事態が収束したかに思われたのだった。
水俣病によっていったん生じた脳や神経の障害の多くは不可逆的であり、完全な回復は望めない。汚染により漁もできず、病のために医療費が重なる。薬も治す為に使うのではなく症状を和らげる程度のもので、いつまでも使い続ける。仕事も失ったまま、家族や自身の入院・投薬に費用を使い果たす。食べるものにも困った末、病院を出る。牢獄のような漁師小屋で、父を看取ったという被害者の家族。声を上げて泣いたという。…現代の患者が、一ヶ月間に使用した「薬の包装袋や空ボトル」などを集めて入れたというガラスケースが展示されていた。とてつもない量に目を疑う。症状緩和と副作用軽減の為だけにこの量を。
病の原因の特定が遅れ、限定的な地域に発生したこともあり、当初「奇病」などと呼ばれた。そして、患者や水俣の出身者に対する根強い差別を生んだ。これは身体的苦痛を上回る被害であったという。一人の患者の証言が、映像で流れ出す。「発症後は、学校でも村でも酷い扱いを受けた。道を歩けば歩くなと言われ、家を出れば家から出るなと言われ、家の戸を開ければ開けるなと言われる。その通りにしなければ石が飛んできた。…私が一番に発症したから、そんな差別を受けたのだろう。しかし、もし、発症したのが二番目だったとしたら。私達もきっと、差別する側になっていただろう。だから、一番に、罹って、良かったな…と。」涙ながらの証言。ここまで苦悩せねばならないのか。
当時の裁判での訴えや、企業の反論、傍観者達の進言や差別的な発言等が、「ビラ合戦」のタイトルの下、交錯して載せられている。「経済成長は遂げても、人間としての心根は腐っている」「そんなに金が欲しいのか」「偽の患者が補償金を貰おうとしている」「社長、あんた死んでくれねえか、うちの両親も子どもも、それだけで報われんだよ」「死んだ魚を喰ったのが悪い」「当社は水俣病患者さんのことに真剣に取り組んでいます」「死んだら皆水俣病とは笑わせるなよ、原告敗訴、万歳万歳だ」一見しただけでは真意を汲み取りにくいものもあった。肉親の死を悼むもの、中立的なもの、野次・傍観的なもの、利権の絡んだもの。しかし、真実の、こころの底から沸き上がるような強い言葉は、どんなものでも刺さるものだった。
新潟水俣病の発生を機に、公害病の概念がこの国にようやく形成され始める。同じく高度経済誌長期に発生した「イタイイタイ病」や「四日市ぜんそく」を合わせて四大公害病というが、これは被害の大きいものを取り上げているのであって、その他の地域が安全だったという根拠には到底ならない。そして現代に至っても、原発事故など未解決のまま。大気中に投げ出されているあれやこれ、海に放出されているあれやこれ。日頃私たちの口にする回遊魚も、その海域を渡っている。近郊で生産されている食料品も、店に並んでいる。しかしこれは先進各国でも一般的なことなのだとも聞く。英国など毎年、桁違いの量の放射性「汚染水」を海洋放出しているという。「汚染水の放出」と呼べば誰でも「問題だ」と糾弾できるが、自然に存在する物質と同程度の影響しかない「処理水」と呼ばれていたらどうか。そしてさらには、そんな一つの例を元に別の事実を歪めたり、不誠実なデータの収集や作為的な選択によって虚偽を働く者があったならどうか。安全な「処理水」と偽った有害な「汚染水」か、有害な「汚染水」と大げさに忌み嫌われた”雨水程度の”「処理水」か。
つくづく、人には真偽を見分ける力がない。それでいて「自分にはある」と思い込む。そう思っていたいから、自分の正しさを正当化するために喜んで命まで差し出す者まである。自らこう綴っていてなおそう思っていまいか。
そして、当事者意識に欠ける。どこか自分には関わりのない「歴史上の事故」であるかのように思っている。ーーー高線量区域を走り抜けてあの惨状を目に焼き付けた自分も、国内各地の沿岸部に並ぶあの不気味な発電所を横目に通り過ぎてきた自分も、故郷の海のすぐ近くに起こったこの公害、建てられた川内原発や熊本の震災をつぶさに見た自分も。ーーー経済成長の著しい某国では、現在も水銀中毒症を引き起こすような水質汚染や、PM2.5などといった大気汚染が当然のように発生している。その他の国に於いてもその様な例は枚挙に暇がない。
今でも水俣病裁判は解決しておらず、被害者の心情を省みないチッソの対応が続いている。政府の認定基準や対応も未だに問題点を残したままである。そして被害者や遺族、地域の人々は、今に至ってもなお病への差別を恐れ、実名による公表や記念碑への名簿記載には慎重であるという。水俣病慰霊式の様子が報道された後には、資料館の語り部の会長を務める男性に、「いつまで騒ぐのか」などという中傷の電話が掛かってきたという。県内中学校同士のサッカー部の交流試合に於いても、水俣市の中学校の生徒が水俣病を引き合いに暴言を受けていた。ーーーそれとも本当は、もう十分以上の補償や対応がなされ、中傷の電話ではなくまっとうな進言で、差別などなく誰もが幸福を取り戻しているのだろうか。ーーーわからない。
ただ、「精神的な幼さ」が克服されなければならないと思う。環境問題も経済の問題も差別も、そこに端を発し、そこにこそ解決の要があると思われてならない。不誠実や心の弱さこそが、責任を逃れようと保身に駆り立て、適確な判断を曇らせ、問題を悪化させ、それすらも覆い隠そうと試みる。これは人間全てが背負う自我の性質だろう。ここまでの繁栄を支えてきた、「己を守ろうとする」大切な性質でもあるから。
人類の黎明期まだ先か、それとも今この時代か。
展示の終盤に、現在の水俣市による環境保全の取り組みや、その後の経過が説明されている。一画に、たくさんのモノクロ写真があった。被害者の方々の、生前のものや罹患前のものだろうか。展示の終わりの広い窓から、昨夜見た池と球のモニュメントが見える。そして遠くに海。「あなたはどんな未来をつくりますか?」と窓に書かれた字が訴える。
昨夜この海やモニュメントを見たときとは、全く違う心情になっていた。環境センターの展示内容も、初めはありきたりに感じたのだが、資料館の展示内容を踏まえて考えると、とても切実な内容だったのだと振り返る。利便性だけを享受し続け、資源の扱いについて考えないままでいれば、必ず将来同じ悲劇を味わうことになるのだろう。自然の恵みを受けるということは、成果である。成果を維持する方法や知恵をもたなければ、いつか途絶える一時の成果だ。それを維持することにも手間を掛けねばならない。「水俣病」は、汚染された環境の中の食物連鎖で起こった人類史上最初の病気であり、「公害」の概念の原点ともなる「事件」である。利益追求が招いた、起こるべくして起こった、典型的な不調和であった。
出口へ向かう途中の廊下に、美しい水中写真が並ぶ。見覚えがある。撮影者は「尾崎たまき」とあった。ああ、やはりそうか。この人なしで撮れる海ではない。これだけの環境を取り戻したのだと写真が語っていた。人々の努力と自然の逞しさを感じながら、資料館を後にした。
水俣湾には、汚染度の高い堆積物の流出を防ぐため、広大な囲いの防壁が建設され、その周囲の汚染ヘドロも囲いの内側に集められた。何重もの流出防止柵を敷き、その囲いに蓋をして封じ込めることで、水俣湾の正常な環境を取り戻したという。浄化されたのではない。もはや濾過をして有害物質を取り出すなどということが出来る量ではなく、単に封じ込める方法が妥当だったのだ。以後四〇年間は流出の心配はないとされている。原子力発電に使用された高レベル放射性廃棄物も、基本的にはこれと同じで地下に埋めるという単純な方法が採られている。人間には無害化の処理が出来ない。余計に危険な兵器に作り替えることは出来るのだが。
この地に到着したとき、やたらに広い公園だと感じたが、それは埋め立て地の広さ、つまり汚染域の広さの表れだった。野球のグランドを九つ並べてもまだゆとりがある。この水俣広域公園は、汚染された堆積物を封じ込めて埋め立てられた場所だった。取り返しのつかない人間の過ちを象徴するかのような、しかし緑豊かな公園だ。なだらかな芝生の丘に立ち並ぶ石像は、水俣の海を臨む。その波も、風も、この上なく爽やかだった。カメラを一台、海辺の遊歩道をふらり歩く。見覚えがあった。初めて潜った尾崎たまき氏が「この海を一生撮り続ける」と決意したという場所だ。海中の生物たちは、近海への流出を防ぐために当時張られていた防護網をものともせず、嘗ての汚染を忘れさせるかのような豊かな環境を作っていたという。今、私の足下から広がる海は、青く光を透す穏やかな波が射し、魚が泳ぎ、漁船が行き交う「普通の」海になっていた。
さて、三〇分のつもりが三時間も見学していた。一二時。防災無線の昼の時報が、猛烈な懐かしさを感じさせる。昼食。一三時出発、次の目的地へ。鹿児島方面へ南下する。通行止めになった橋や道路を迂回しながら一時間半、鹿児島県薩摩川内市に入る。市町村合併もあり、自分の本籍地となった街だ。
新田神社に到着、懐かしい。小高い山の上の神社で、麓から石段を数百上がって参拝したものだった。最後に来たのはいつだったか、覚えてもいない。二〇年ぶりだろうか。中腹の木陰に車を止めて降り立つと違和感があった。麓の駐車場を通り過ぎていた。大きな紫陽花が咲いている。カメラを片手に石段を一息に駆け上った。大楠の樹があり、注連縄を張られているのだった。ああこんな立派な樹があったのか。与謝野晶子夫妻が訪れて詠んだという歌も記されてあった。島津氏に薩摩国一宮とされ、家臣の刻んだ木像も、この樹のうろに奉られているとか。手を清めて本殿に臨み、旅の無事に御礼。再びこの地を踏むことが出来た感慨がある。様々なことが思い出される。
参拝を終えて、嘗て過ごしたゆかりの地へと一時間ほど走る。いつも使っていた最寄り駅。駅舎が新しくなっていた。空き缶回収ボックスの「カン太郎」が懐かしい。駅前のデパートも、店の名が変わっている。その店で食料の買い出しをした。人々の顔を見ると、自分も東京にいるより馴染んでいると思う。野菜、果物、穀物、そして「げたんは」。郷土の黒糖菓子で、「下駄の歯」のような形からその名が付いたという。早速一〇枚、すなわち一箱。秒殺であった!久しぶりに口にしたこともあって、あっという間に食べ尽くした。
これほど遠くの地に来て、地図が要らないというのが不思議だ。街行く人に神村学園の生徒が。そういえばこの近くだったな。海寄りへと進む。街の様子が少し変わっている。本土の、かつての祖母宅へ。もう誰も住んでいない。一応まだ一族の家なのだが。一目見て周囲を眺めながら港へ。懐かしい、あひる取りをして遊んだ川や、くらげに刺されて大泣きした浜を過ぎ、港の駐車場に車を止めた。釣り人が、海にルアーを投げている。太陽が西の海に近づく。離島の本籍地へは、ここからフェリーに乗って三時間の場所だ。訳あって行かない。
ぼんやりとここまでの道のりを想った。防災無線の一七時の時報が、痛いほど懐かしかった。
夕日を見たい場所がある。車を走らせる。場所は秘密だ。橋の上からつましい街並み。鳶がゆっくりと空を舞う。古びた漁港を過ぎて細い路地、それもアスファルトの敷かれていないコンクリートの白い道を抜け、車の行けるところの限界まで進む。車を降りて上着を一枚、三脚、カメラ。海に長々と迫り出した防波堤の末端の、灯台を目指して歩く。数人の釣り人と言葉を交わす。数羽の鳶が道を譲るように飛び立つ。朱と紫と水色の空に、風になびいた高層の薄雲が美しい。風も波も、涙が出るほど穏やかだ。南を向けばただ果てしない海。眺めているうちに日の入りが迫る。灯台の真後ろで橙に染まり出す低い空と、真っ青に追いかける高い空。七年振りに、同じ構図で写真を撮った。美しかった。あとはただ、灯台の根本に腰を下ろして、波音と風音を聴きながら、色の変わって行くこの風景を、眺めるでもなく目を閉じる。ただ鼓動と息づかいがある。だんだんと身体から熱が抜けていく。何人か、この灯台まで来て夕焼けを眺めていった。紫一色になった風景を観てようやく、自分も車に戻った。灯台を振り返って、数枚写真を。小舟が水面を割っていく。またここに来ることはあるのだろうか。照射灯が浅瀬に真っ直ぐ光を投げている。二二時に眠った。波の音が聞こえていた。