8月25日(木) ユーコン川1日目
 8時半、柔軟、運動、身支度荷支度。
 9時半、一度荷運びの為にホテルを出るが、チェックアウトせず。5分歩いて例の川辺のログハウスへ。開店前の時刻だったがスコットは忙しい中迎えてくれた。他の客らの姿もあった。道行くキツネの姿もあった。店の中にはキャンプ道具が所狭しと並んでいるが、自分の見慣れた道具以外の川暮らし向けの装備や備品が半分以上を占めていた。ガス缶もあるが規格が違う。
 店の裏手に出ると岸辺にもう一棟の納屋が建ち、周囲には驚く数のカナディアンカヌー、逆さで棚に置かれている。爽やかに晴れた空の青、朝陽に輝く雲の白、岸辺の芝生の薄緑、並ぶカヌーの赤・黄・緑。思わず写真に撮ったほど、その調和した彩りと川辺の朝の空気の良さ。木柵の途切れた向こうに浅瀬の水辺が見えていた。2、3のカヌーも並んでいる。なるほどここから漕ぎ出すものかと知って少々安心した。昨日眺めた近くの岸では流れが強く、離岸の想像がつかないでいた。
「追加で何か必要な物、貸し出しする品があれば言ってくれ。日帰りのカヌーツアーに出る数組の客を送り出すから、それまで少し待っていてほしい」とスコット。電話、会計、送り出し、一人で切り盛りするのだろうか忙しそうだ。「そういえば君、ファーストネームは?」「***です」「なるほど***、それは確か”Way of Peace”の意味ではなかったか?昔武道の稽古で耳にしたことがある」「それは初めて聞きますが、あるかも知れません」和の道か。英語では「なんやおまえ」に聞こえる名だが、異言語で受け取られている母国語の意味は興味深い。そしてこんな遠方の地に、武道や邦語の知識をもった異国の人がいるというのは興味深い。どんな縁の持ち主だろう。
 荷物を置いたら一度一人で街へ戻る。アウトドア用品店へ。5分ほど待ち朝10時、ようやく開いたその店内へいの一番。入ってすぐ、見慣れた規格のガス缶が。胸を撫で下ろす心持ち。大小あったが小2つ、レジを探すが視界に無い。一直線に通路を抜けて別の店かと思う区画にレジがある。会計が済み、今度はホテルに走って戻る。冷蔵していた食料を持って部屋を一瞥、忘れ物はない。ロビーへ降りてチェックアウト。
 早足でさっきの川辺に戻って来た。どちらを借りよう、クーラーボックス大小2つ。小さい方では収まり切るのか、ランドセル大。大きい方ではかさばるか、犬でも運ぶケージの大きさ、一長一短。減っていくから小さい方に。軽く洗って冷凍していた肉類や海老、チーズヨーグルト、サラダや西瓜、カットフルーツを入れると一杯。アルコールへの執着がビールを1本入れろと喚く、他者の嗜癖は世話が焼ける。詰め直し、サラダの袋の空気を抜いて、プレーンヨーグルトは常温に。その他食品や調味料、匂いがあるもの全てまとめて青いプラスチック製の樽に収める。その名は「ベアプルーフバレル」、防くま樽。防くま素材の防くま樽。”ベアプルーフ”なる語の組み合わせはおかしいのだが、もしこれ無しで熊に出遭えば笑い事では済まされない。長距離ツーリングに必携の装備の一つ。小型の倍、60Lのバレルを借りる。強い素材の樽型容器に黒い蓋、開閉部分の外1周には金属の輪、レバーを倒すと絞られ接合。匂いも出ず、熊が中身をあさることもない。
 次はキャンプの道具や衣類や機材。「雨の有無には関わらずとにかく濡れる。濡れうるものは全て水を被るつもりで用意した方が良い。ポリ袋では積み下ろしのたびに穴が開く。もう一つドライバッグを貸しておくからそちらの鞄も入れておけ。料金はいい。」100Lのドライバッグを2つで済ませるつもりでいたが、厚意でもう一つ持たせてくれた。厚いナイロンの防水素材、丸底の円筒型で、荷物を入れたら端を重ねて2、3度巻き、巻き込んだ端を下方に向けて、底辺隅の留め具に合わせる。更に巻き込んだ上辺にかけて、背面側からストラップ2本、被せるように留め具で絞る。これなら水に逆さに入れても中身を濡らさず保てそうだ。取っ手や背負い紐の付いたもので、そのバッグ自体重厚だった。野営の道具も機材も衣類も一つのバッグに収まった。
 同じ岸では軽装の日帰り客がパドルの操作や目的地点の軽い説明を受けている。見たところ荷物は水と川地図1枚。対するこちらの大荷物を見て、行き先、日数、旅程を訊かれた。300km先カーマックスへの8日間。互いの武運を祈って別れる。先に漕ぎ出す姿に手を振り見送った。
 スコットがいよいよカヌーを運んでくる。全長およそ5m、赤いカナディアンカヌーを1艘、両手で頭上に掲げるように運ぶ姿が勇ましい。加えて前後に舫い縄。緊急用の救命ロープ。シングルパドルとダブルパドル、予備を含んだ2本と1本。ライフジャケット、水を掻い出す容器やスポンジ。最後に雨避けタープを受け取る。「積んだ荷物が全てカヌーに繋がれている状態に」との助言を受ける。カヌー内部の中央に横木、前後に木枠を網で覆った座席があった。座席は一つが中央に寄りもう一方は端寄りで、二人乗りでは両席共に前方が広くなるよう使う。横木や木枠にドライバッグの紐を絡める、ドライバッグを互いに繋げる、バレルやクーラーハンドル部分にそのストラップを通すなどして、転覆しても流されないよう荷を留める。前席背後にドライバッグが2つ並び、横木を挟んでバレルとクーラー、ドライバッグの3つ目と中身を抜いたキャリアーを置き、残る雑多な品々を箱に。「転覆したらどうするつもりか打ち合わせしておいた方がいいんじゃないか」と不安げな父。「まあええやろ、落ちたらチャプチャプいわしといたら」と自分。「準備が済んだらペーパーワークだ。店に来てくれ」とスコット。
 店内でベアスプレーと川地図を買う。貸し出し品を確認し、支払いをする。川地図をもとに良い野営地や危険箇所、注意事項や停泊等の指南を受けて、迎えの車の合流地点と日付・時刻を確認する。
「地図と解説は流域開拓の歴史とともに進んでいく。出発地点はここホワイトホース、タクヒニ川まで3時間ほど。湖の手前に良いキャンプ地がある。その先ラバージュ湖ではいつも右岸近くを行くように。抜けるまで12時間から14時間。天気と風の予報を調べておこう。うーむ、丁度2日目昼から強まりそうだな。波風のない早朝か夕方の凪に進むと良い。波立つようなら漕がずに寝て待つ、珈琲を飲むでもいい、とにかく進めないだろうから。風は時速で100kmということも過去にあった」「なるほど、この旅程で見込みはあるでしょうか」「風によっては不可能になる。しかし日照時間が長い。その分距離を稼げばなんとか」
 そもそも流れがない上に、風吹き荒れることも多いので、大抵の人はこの湖を避けるか跳ばすかするらしいとは聞いていた。隣のテスリン川をスタートし、この湖より下流でユーコン川に合流するか、モーターボートにカヌーを積んで、湖下流をスタートするとか。そうとは知りつつ計画中は「まあええやろ、チャプチャプいわしとけば」と熟慮も考慮もしなかった。いざ出発を前にそう聞くと、アタマは不安を探し始める。地図にある警告の文も目に入る。「この湖を小舟で進む潜在的な危険については、充分に述べることは出来ない」。とはいえ準備は済んでいる、積み荷は満載、満を持しての出発を今か今かと待つばかり。やはり行き着く「まあええやろ」が、不安も怖じ気も結局無視と意に介さない。ここを行ければもうこれ以上の挑戦に、戻ってくる必要もないだろう。
「湖の東岸中程に緊急電話が置いてある。そこから先は電波もない。通話できるのは一度切りだ、もしもとなれば熟慮の上で決断を。さて、ここを抜ければ川の流れも再び増して快適だろう。また逆に注意するべき波の立つ場やLPがある」「LP?」「”Log Pile”、丸太の堆積。中洲や島の上流側に流れ着いた木が折り重なって出来上がる。非常に危険だ、近づかないこと。地図にいくつか記しておこう。ーーーこの村を見たらカーマックスまであと6、7時間というところ。ゴール地点のキャンプ場には水場やシャワー、食堂なども揃っているから利用するといい。ピックアップは8日後木曜、9月1日。14時にしようか」「OK」「岸に上がるたびカヌーを引き上げ木々に縄で繋ぐこと。モーターボートの立てる波や風に吹かれて知らぬ間に舟を失いもうそれきり、ということもある」「気をつけます」「何か気になることは?」「充分伺いました。なんとか遂げます」「それでは武運を」「ありがとう」
 12時45分。しびれを切らして「もう何本かビールを買いに店に行こう」と父が、否、酒が言うので呑まれる前に出発する。ライフジャケットを装備する。スマートフォンをそのポケットに。川地図と水を手の届く場所に。前席に自分が掛けて、カヌーを岸から押し出した父が後席に着く。パドルで浅瀬をもう一押し。
 赤いカヌーがエメラルド色の水の表に、その重量を預け始める。あと10cmで船縁が水面の高さを下回る、思うと同時に浮力を授かり、ふわりと自由を手に入れた。立つ瀬を去り、そこで得ていた恵みも去り、ふわふわ落ち着かない身体、さあいよいよと高鳴る心。
 ついに漕ぎ出す。上流向きに岸を離れたカヌーがやがて川の中程まで漂うと、自然と進路を下流へ向ける。カヌーが勢いづく前に重心を探りバランスを取り、足腰を据えてパドルを構える。もう後戻りも忘れ物も街の暮らしも置き去りにして、只行く先に注意を注ぐ。冒険心がようやく陸との繋がりを断ち、その不自由から解放された。水に倣って行き着く所へ向かうだけ。
 早くも流れに乗り出した。これは速い。両手に構えたままのパドルが必要ない。川の流れは川の上では風になり、前から後ろへ過ぎていく。岸に立って眺めた水面と逆の光景。乗ったカヌーが一枚の川に貼り付いて、止まったままで動くことなく、街の景色や川辺の木々だけみるみる後ろへ過ぎていく。
 それなのになぜこんなにも静かなのだろう。聞こえるはずの何かが全く欠けてしまっている気分になる。それを聞こうと必死に耳をそばだてる。音立てるはずの何かを探して周囲を見渡す。そういえば、漕がずにいても大丈夫か?川の左右のどちらの辺りを進むべきか。このまま進んで実際本当に大丈夫なのか。何時に出発したのだろう。・・・アタマがうるさい。
 北の空、一面薄雲、青白い。岸水際を丈の低い木や草が埋め、その奥に白樺だろうか広葉樹が葉を黄に染めており、更にその奥、直立で並ぶ針葉樹。進むにつれて緑の色濃い針葉樹ばかり岸に並んだり、低木の枯れ枝だけが突き出していたり、小高い丘が崩れて白い砂丘のような斜面を川に向けていたりと、視界の景色が入れ立ち替わり過ぎてゆく。
 見逃すまいと目を凝らすのだが、そこには実際何一つ注目するべきものも無い、単なる自然の穏やかさだけが並んでいた。
 大地が空に書いた詩が樹
 風が揺らしてそれを読む その葉の1枚1枚が
 完全な美と調和に従い 風に揺れることを体現する
 空を謳歌し飛ぶ鳥は ”鳥”という名も分類もなしに飛び歌う
 脈々と途切れることなく 始まりも終わりもない川
 音もなく下絵もなしに 水面に綾を描き続ける
 全てを照らして眼に届けるのは日の光
 受ける意識もその経験に光を投げて照らし観ている
 それらは何も意味しておらず 何の解釈も必要ない
 解決すべきどんな問題も対立もない
 特別視すべきどんな焦点も観点もない
 だからこんなに静かに感じる。心を乱す喧伝もない、誘惑もない。刺激を意図した何物も置かれていない。
 出発を待つ焦燥や、憧憬を果たす感慨や、尚湧き上がる心配や、慣れない景色を解釈しようと、アタマにぐるぐる流れ込む思考。そういった知覚や仮説や叙述に過ぎない事柄が、久しく自分の注意を引いて、あるがままでいる静寂を掻き消しながら生きてきたことにようやく気づく。
 日頃の雑事や取り組む課題に、従事し続け習い性にさえなっていた判断、計算、予期や予測や、警戒、抵抗、その他の習性。生存や欲の確保に駆られるパターン。
 それは不要と告げる自然の恵みと穏やかさは、目を休ませ、注意を休ませ、初めて心を休ませた。数年来、探し続けたその静寂がここにはあった。
 いや常に、いつでもどこにでもあったはずだ。それに今、ここで気づいただけだった。”楽器”には静けさ自体を創り出せないことと同じだ。だから見つからなかったのだ。外側に見つけるのでなく、何も探さずにいて気づくもの、いつでもそこに横たわっている本質だから。
 経験の目新しいこと、不慣れであること、それなのによほど調和を感じていること。それを必死に汲み取ろう、噛みしめようと、自然自ずから努めていた。気張るほど消えてゆくかもしれないが。
 気づけば晴れて陽が射している。漕ぎ出しの緊張の中で忘れたままいた風の僅かな肌寒さを、暖かな陽に初めて思い出したのだった。そしてその勢いのまま進み来たのは静かな入り江、”McINTYRE CREEK”。あまりの静けさ、またしても声を失う。陰性の、”音の無いこと”。また知らぬ間に聴き入っていた。まるでまだ「どこかに音があるはずだ」と探そうとして。
 慣れない経験パターンを、進んで自分に浴びせようとする。カヌーは以前に経験したが、この地のこの旅、何を知らずに旅しているかは知らないままだ。
 波の無い平らな水に、そっとパドルを挿し入れる。縦にしたまま引き寄せる。水を捉えたブレードに沿って、渦が生まれて視界の後ろへ過ぎてゆく。T字の柄の先、左掌で押すように。それと同時に柄の中間を右手で掴んで引くように。力点は言わずもがなその両手。実は支点が水の中。そして作用がカヌーを押し出す。止水の上の只一櫂でも、全行程を遂げる一櫂。
 パドルを止めると雫の滴る音が聞こえる。音はそれだけ。視界を埋める水と空、二つの狭間を緑が分かつ。ふと我に返ったように、ドライバッグの間に置いた川地図を取って確認した。目印になる入り江の終わりと折れた進路。それを過ぎるとやっと8km、1時間というところだった。ゴールドラッシュ時代のものか、細い支流を見下ろす小屋が、高さある岸に残っていた。地図上のそんな支流や古い小屋、ページとページの境目などに累積距離が書いてある。キロメートルもマイルも併せて。その基準0km地点はホワイトホースよりも上流46km前のマーシュ湖。書かれた距離から46ずつ引いた値をそれぞれの場所にメモしておいた。
 全300km、まず8km。
 ゴールが目的だというならば、自転車で1日あれば済んでしまう距離。わざわざ重い荷を積んで、水にも屋根にも不自由しながら進みゆく意義は何であろう。そんなことは、アタマが知恵を出し尽くしても、足が歩まず分かるはずもない。人生そのもの。分からないまま始まって、分かったふりをしたままで、未だ見ぬところへ向かっていて、残り日数は限られていて。
 同じ小舟に乗りながら、人生残り半世紀、人生残り数箇年。
 同じ旅路をゆきながら、片や人生道半ば、片や人生終盤にある。
 歩いてみても分からず終えたり、分かったようでも浮きつ沈みつ波に揉まる。
 しかしこのいま喜ばしいなら、アタマを悩ます意義はない。それがそのまま恩恵だろう。地球の裏まで往き来して、食べきれないほど糧を積み、有り余る時を川に流して、敢えて不自由に身を預ける。望んだとおりが一縷も違わず成就している。
 乗り越えるべき、苦難の300kmではない。望んだとおりに授かった甘受するべき300kmの、疾くも過ぎ去るその8kmだ。一櫂一櫂全行程に欠かせぬ一櫂。一足一足人生織り成す一足だ。一歩一歩に困難の待つ浮世ではなく、授かったことを「是」として歩む生命力。地図を置き、水を飲んだ。
 14時、北向きに進んでいた川が大きく西へ曲がる。背中で受けていた陽射しは左手から注いだ。穏やかな速度で進むカヌーは左岸に寄り、川に落ちる木陰をゆく。エメラルドグリーンの水は影では濃く、日向では白を混ぜたように明るい。岸に並ぶ木々の向こうで太陽が輝いている。水面では、木の姿をした影と影の間で、映る陽光が明滅する。左舷に生まれる波が、その照り返しを散り散りにして、真っ白にきらめかせる。視界を白く、映る日の輪にいくつか光の輪を掛けて見せるほど。
 南の空に雲がかかって光が弱まると川の明度が均一に抑えられた。木陰の側では深緑に、進路前方は雲の白さを反映して白く、右岸際では岸の砂坂が逆さにぼかしたように映る。左岸の木陰を進んでいると風が肌寒く感じた。寒ければ日向を、暑ければ日陰を進む。パドルが立てる優しい水音を楽しむように、必要以上の力は込めず、一櫂一櫂を意識して水を後方へ送っていった。川の水勢は出発した辺りよりも穏やかで、軽い小走りくらいだろうか、それにパドルの推進力を併せるとマラソンくらいの速度になる。その勢いを、息を上げずに味わうイメージだ。不思議な乗り物だと改めて思う。マラソンしながらこの量の荷物は運べない。自転車の速度には及ばないが荷物があったらどうだろう。エンジンも燃料もタイヤも無しでぷかぷか川に運んでもらう。木を材料に、水の流れを動力に、その行く先に従いながら、己も重荷も一遍に。そう思うと川辺・海辺から街や都市が発達してゆくことを、身をもって納得する。木を使ったり、水に頼ったり、風に力を借りたり。身の回りにあるものを工夫して出来上がった、暮らしを支える古来からの自然な営み。その時空を越えた懐古に、穏やかさ、調和を感じるのは当然なのかもしれない。
 再び北向きに進むと左岸から合流する”TAKHINI RIVER”が見えてきた。川幅数十mはあり、”KLONDIKE HIGHWAY”の鉄橋が架かっている。出発前に言われたとおり、丁度3時間ほどでここまでやって来た。恐らくデイツアーはここまでで、車で戻る旅程なのだろう。その北側の岸辺の森を散策している人々の姿があった。出発から20km、3時間弱。ジョギングくらいの速さだろう。
 16時、川の中に位置する島で休憩をとることに。地図によると”EGG ISLAND”「たまご島」、野営や休憩に適していると書かれていた。島の上流側に木々の途切れた草地の岸が見える。そこに着けよう。だが定点めがけて止まろうと思うと、川の速さが増したようにさえ感じられる。島に寄せ、流れに逆らうつもりで漕ぎ、北へ向かう川に対してカヌーを東向きにして岸に着けた。
 初の着岸だ。パドルを手に上陸しようと立ち上がると、重心がずれてカヌーが揺らぐ。一歩島に足を掛けると反作用でカヌーが岸を離れる。そのまま両脚一直線、見事なバレエの素養を発見してから川にどぼんーーーというありがちなシーンが思い浮かぶが、島と舟の両足を引き合わせるように近づけて上陸、左手に縄、父の差し出すパドルを右手に引き寄せて岸に近づけ両名上陸、近くの木にカヌーから伸びる縄を結んでしばらくぶりの陸の心地を思い出す。上陸はまだ慣れない。適したイメージが湧かず、手探りでの動作だった。岸に浅瀬が無く、船縁よりも高い陸地に、カヌー全体が水に浮いた状態で乗り降りしなくてはならない。思い浮かんだ「川にどぼん」でもおかしくなかったように感じる。「転覆したらどうするのか打ち合わせしておいた方がいいんじゃないか」と再び。「まあええやろ、チャプチャプいわしとけば」。まだ電波があるので家族に写真や現在地の地図を共有した。川の向こう西側の陸に、木組みに白い布の大きな三角テントが建ち、周囲にベンチとテーブルが。岸にはごく小型の水上飛行機が泊まっていた。
 16時40分、何をするでも無く何となく陸を味わって過ぎた休憩。まだどのように過ごしたものか、適したイメージが湧かない。8日も経てば分かるのだろうか。脱いでいたライフジャケットを再び装着、木に結んだ舫い縄を解いて引きつけておき、後席から乗船。続いて自分が前席に。緊張再び、川にどぼん。思い浮かべながら無事乗船。ふわふわと揺らぐカヌー、舳先に縄をまとめたら岸をパドルで押して離れる。左舷の水を掻き寄せて、右に回って流れに戻る。再び川の流れを動力にして、今夜の野営地を目指して進み出す。
 17時、休憩している間に灰色の雲がやや厚く、空を広く覆い始めた。夏には見ることの少ない、刷毛で伸ばしたようなすじ雲が、東の晴れ間に掛かって空色を覗かせている。北方、進行方向にはより低いところに途切れ途切れの綿雲が浮かんでいて、それらの地面側は暗く、空側は明るく白い。それが遠くまで並んでおり、薄青く見える山の向こうまで続いていた。更に30分ほど進むと厚い雲も綿雲も、不揃いの皿でも重ねたようにそれぞれが頭上高く折り重なって見えた。白い部分、暗い薄青の部分、灰色掛かった部分が織り混ざって、風の向きも光の向きも同時に表す彫像のようだった。
 18時、30km地点。景色が変わって見える。ずっと視界にあった針葉樹が、ここでは遠く背を潜めている。岸の奥まで短い草の原が広がっているらしい。この辺りも良いキャンプ地だと聞いていたが、日数と距離、今後の天候なども考えるともう少し今日の内に進んでおきたい。7日目の夕方までには到着して、8日目を荷づくりだけで済ませるのが理想だった。すると1日42kmを越える計算になる。この先の湖や悪天候で足止めされることも考えると、もっと進んでおく必要があるだろう。しかしながらもうこの時刻。日本でならテントも寝具も用意を済ませておくべき頃合いだ。明かりの無い中設営をすると、設置場所を検討しにくく、作業にも手間取る。眠る場所の状態は体力の維持に重要で、テントや寝具があればどこでもいいというものでもない。地面の硬軟、温度、水平、風避け雨避け、明るさ、眺望。更に野生動物の生息域では、熊に備えて食事の場所や食料の保管場所からも離れた位置に設置する必要があった。実地への到着が、日のある内でないと難しい。あとどのくらい日照りに余裕があるのかが、身に馴染んでいないから、自信を持っては決めかねた。どうしたものか。
 差し掛かる”STEAMBOAT SLOUGH”「蒸気舟の沼」。右手に広がる湿地のような広い中洲、進路は左へ。ここにも良キャンプ地があるらしい。
 灰色の雲が空全面を覆う。薄暗くなるので日の入りが近いのかと気が急く。
 灰色の雲が視界の大半を占める。岸辺の草原は小麦色の横一文字。川の水面は空の色を映して鈍い鉛色。隠れた太陽が雲の厚みやその位置によって、視界の光量をゆっくりと変える。
 風が囁くように背を押す。水面にさざ波が立つ。
 雲の姿はそのままで、空が一面が銀色に輝きだした。
 その銀色に呼応して、川一面も静かに光ると、天と地が融け合わさった。
 境に舟を残し、風になびく草原を一文字の道標に。
 再び無音が心を捉える。心が捉えうる刺激がない。
 意識の背景にその無音が横たわっていた。
 それで、何も考えず、そのままカヌーを進め続けた。何の決断もしなかった。自然と進んでゆくように、状況が定められたように感じた。
 曲がった先の岸には針葉樹が並び、支流を挟んだ下流側ではそれが白樺に変わっている。変化を予感させる光景だ。まさに右手に折れたところが”LAKE LABERGE”、ラバージュ湖に注ぎ入ろうというところ。北に向き直ると景色が開けた。遙か遠く、水面と空の混じるところまで見渡せる。
 18時45分、出発から6時間。川幅が広くなる。浅瀬の合間を抜けた先、いよいよラバージュ湖に入った。河口からすぐ右手、水中から数十cmずつその頭を覗かせた木の柱が2列で並んでいる。朽ちた桟橋の残骸か?岸から湖に向かって並んでいるが、そのうちの1つ2つに鳥の巣箱のような木組みの箱が掛かっていた。不思議な景色だ。全くひと気のない、人里離れた土地に、人の手で作られそのまま古びた遺物が、何の役割を持っていたのかも分からないまま視界をよぎる。
 次のキャンプ地までは10km弱だろう。これまでと同じ速度で進めれば、どうにか日のある内に着けるのではないかと思っていた。昼の出発も早くなかったから、もう少し時間をとるべきだろうとも思っていた。「いつも右岸に沿うように」との注意は頭にあったが、河口から北東の方向、斜めに右岸を目指していけば、陸側南東にくぼんだ入り江をなぞらず短距離で済むだろうとも考えた。
 どちらにしても、あと一息だ。それほど疲労もない、なんとか辿り着くだろう。そう思いながら、必死でパドルを漕いでいた。必死で?ここまではそれほど必死に漕いでは来なかったが。湖に入り流れがないから必死に漕ぐだけではなかった。川の穏やかさからは想像もしなかった荒い波が、前から絶え間なく寄せてくる。2秒間隔で数十cm、前からぶつかり身体を舟ごと上下させる。斜めに右岸に向かっているのだが、意図してそれを阻むかのように真正面からやってくる。波を越えた後の揺り戻しで上体が浮く、腰が浮く、足で船底を押す。押し戻されないだけでも必死だ。更には漕ぎながら、まともに舳先を沈めたり飛沫を受けたりしないよう、重心を上下しバランスを取る。波ばかり気にしていた、進路は守れているのだろうか、何か目印はないだろうか。岸から離れて遠いのに、水から枯れ枝だけを出している木があった。それを頼りにそばまで進む。只の枯れ枝、波しのぎにも宿り木にもなりはしない。尚も目一杯に漕ぎ続け岸辺を目指して進んでゆく。進んでいるのか?さっきの枯れ枝を振り返る。波に当てられ前を向く。必死で漕ぐ。再び枯れ木を振り返る。進んでいるのか?分からない。必死で漕ぐ。波に合わせて荷重を逃がす。進んだだろうか、また振り返るが分からない。デジャヴに心が捕らわれる。まさか進んでいないのでは・・・そんな不安と、振り向くたびに水天ともに、光を弱めていく時刻の不安が湧くばかりだった。
 もういい、前だけ見据えよう。そう思うと波への対処に心が向かう。効率の良いパドリングがありはしないか。身体に任せて楽な方法を探り、象るようにする。一波つかみ、一波おくる。これだろうか。自然とそんなリズムが提案される。誰に教わったのでもない、太古の記憶か本能か、同じ波でも立ち向かうより避けていく意図が理にかなって無理がないような気がした。気がすれば充分、その気分で漕ぎ続けると視線を上げる余裕も出る。見上げた先、東に石碑の並ぶ岸、その左には丘手に続く土の道が、まるで呼ぶように木の葉のトンネルを構えている。何の巡り合わせか丁度ノルマの42km地点のようだった。
 キャンプ地はまだ先なのだが、ここまで来るのに河口から75分、それでやっと4km進んだ程度だった。まだ明るいがもう20時。あの波の中、更に6km先までとは気力が保たない。野営が出来ればここにしようと、波の和らぐ浅瀬からカヌーを岸に真っ直ぐ進ませた。前方の船底が瀬に乗ったらパドルを杖にして陸に上がる。少し船体を引き上げて後席が降りたらカヌー全体を岸に上げておく。瀬は砂利と丸石で、高波に取り残されたか流木が溜まっていた。パドルを木に立てかける。手が黒ずむほど漕いでいた。力を抜いた手や腕の弱々しい感覚が、ここまでの骨折りを追認させる。
 軽く縄を結び丘に上がって周囲を観察。木々のトンネルを抜けるとすぐ左手に丸太小屋が現れた。道を挟んでその向かいに、ベニヤを載せた簡素な台、錆びた金物が置いてある。その背後に崩れかかった小屋の骨組み。廃村なのか?もう少し上るとそこにも木のテーブルと両側に丸太の腰掛け、ベンチも有り、風化で色は抜け白く見えるが丈夫で長年使われているようでもある。近くには焚き火の火床が石で囲ってあった。充分だろう。岸に戻って荷物を運び出す。ドライバッグの留め具を解放、バレルやクーラー、ベアスプレーなどを岸に下ろし、空になったカヌーは逆さに、丈夫な木に舫い直す。坂の途中まで荷を運び、左手丸太小屋の軒先に出た屋根の下に並べて置いた。まずは一息、慣れない旅路の無事を振り返る。地図に到着時刻を記しておく。荷物の中からカメラを取り出した。この日は背負わずカヌーの操作に集中しようと、1枚も撮らずにいたのだ。あの銀世界、撮っておきたかった。しかし撮るのに夢中では、味わえなかった気づきがあった。撮れないからこそ脳裏に焼き付く風景もあるだろう。
 明るいうちにと思って周囲を撮って回った。火床の北へ進むと更にもう2軒の丸太小屋が残っており、現在地がはっきりした。少々文字の消えかかった看板に”UPPER LEBARGE INDIAN VILLAGE AND CEMETERY 1898″とあった。”ラバージュ”の綴りが違うほど前なのか、どうやらアメリカ先住民の古村であるらしい。岸辺の石碑は墓地だったようだ。これは、思ってもみなかった貴重な場所だ。その小屋の扉は内向きに開けられており、中には古びた机や椅子、ベッドや棚、空き瓶などが残っていた。まさかこんな場所に人の生活があったのか、と信じ切れない自分の想像力を、それらの遺物が補う。広さは6畳くらいだろう。緩い三角屋根の平屋で、高いところは細めの丸太を20本分を積んだ程度、跳ねれば手が届く。5本の丸太が差し渡しに、屋根板を支えている。部屋の隅から屋根の上へと笠の掛かったパイプの煙突。白枠で6つに区切られた明かり取りの窓が、西からの陽射しを通している。扉の外の地面には平板が並んで雑草は無いが、その両隣は短い夏を今とばかりに盛んに伸びる様々の草。看板前には茎の赤い、フキによく似た大きな葉が集まっていて、その中央に枯れた低木が残っていた。小屋の周りはとにかく様々な形の草・木・花で埋め尽くされるようで、長らく人の生活がないことを思わせる。
 小屋の面に木の影が投げかけられているのを見て、あまり悠長に想像している時間もないと気づく。日の入りが近い。テントの設置場所を考える。夜露を嫌って荷物を置いた小屋の中に張ろうかと考えていた。8畳ほどの板張りの床、扉も窓も外枠だけだが雨風の心配もない。しかし折角のこの環境だ。坂を上った見通しの良い、火床の辺りにしようと決めたら、草地の柔らかい平面にテントを広げ、ポールを伸ばして組み上げる。5分と掛からない。入り口を坂に向ければ西に湖を見下ろして、夕陽もその向こうに沈むだろう。マットを広げてバルブから空気を吹き込む。寝袋を広げてその上に放っておく。ライフジャケットは枕代わりに、ブーツや水筒、川地図やベアスプレーなどの小物も放り込んでおいた。父も早々に隣に設営を終え、焚き火の支度に掛かっている。
 21時、夜を迎える支度を終えて、気持ちに余裕を持ったところで周囲を詳しく撮影した。通って来たトンネルの先、湖岸にはまだ波が寄せていてその音が聞こえる。西の対岸向こうの小高い山に太陽がだんだんと近づいて、波も湖水も輝いていた。
 寒さの厳しい場所なのだろうと感じさせるのは、早くも赤黄に色づく草の葉、木の葉が混じっていること。小屋の背後の斜面では、赤紫の葉とさやを湛えた胸の丈ほどもある草が、かねてから取りまとめて植えられていたかのようにその赤紫を並べている。そのさやといい高さといい、ナノハナの姿を思い出させる細身をしており、油を作るのにでも使われていたのだろうかと想像する。気温でいえば似たような収穫時期ではないだろうか。しかし不思議な赤紫で、見慣れぬ色が風景を彩り、安易に解釈させないのだった。
 更に太陽が山際に近づくと空に金色を投げる。遠くの雲は薄い朱色に輝いて、近く見上げる雲はその厚みや向きによって明暗の強い対比を見せ始める。西正面にうね雲か、レンズ雲の群れを形成して、いびつに重なり合っている。横から夕陽が当たっているが、光を通さず濃い影の面を見せており、その手前で燦々と輝く細い雲が、金継ぎをしたように対比する。南西からの風が晴れ間を連れて雲を押す。上から青、水色、薄い緑、黄色に朱色と空のグラデーションが見えて、その下は山が黒いシルエットに。それを挟んで眼下の湖面が、空の色、雲の色、夕焼けの色を波の上で混ぜて光っていた。
 気づけば山に太陽が掛かる。すぐには隠れず、稜線を撫でるように北西へ、浅い角度で沈んでゆく。北方の土地では朝焼け、夕焼けが長い。
 静かに、ゆっくり時間を掛けて、夕陽が光を弱めていく。何の指摘も解釈も要らない、驚くほど完全で完成した風景。
 優しく揺れる木々や草花に囲まれながら、時の流れを忘れて眺めている。
 多分今、歳をとっていない。
 辿り着いたときには「こんなところで人が暮らしていたのか」と思ったが、この夕暮れ時の、この穏やかさに触れると、確かにここに暮らす理由が垣間見られたように思う。とても一人分の心では味わい尽くせない、得も言われぬ情景だった。
 枯れ枝や朽ち木の破片を拾い集め、焚き火の火守りを父と代わった。風化した白い流木も沢山有り、よく乾いていてパチパチと小さく爆ぜる音が心地良い。鍋を火に掛けて湯を沸かす。短い丸太を転がしてそばに据え、椅子代わりに火を見守る。悠久の記憶に刻まれた安息と、夜を迎える静穏のイメージ。焚き火の煙、鍋から立つ湯気、湯の沸く音、遠く波音。
 22時、日は沈んでもしばらくは空が青白い。東からだんだんと紫、紺、藍と暗色に変わって周囲まで暗くしていく。沸いた湯を注いだアルファ米は15分ほどで食べ頃、まだ温かいだろう。それと、残りの湯で温めたのかレトルトの親子丼を父は夕食にしていた。やはり少し遅くなってしまったが、手元の見える明るさが残っていて良かった。自分は岸まで下りて波で手を洗い、顔や身体をアルコールのシートで拭き上げる。肌を晒しても蚊はおらず、快適だった。しかしようやく来た夜は、みるみる空気を冷やしていく。ダウンを重ねて着込み、火に当たりに戻る。暗がりの中、吐息が白い。テントに触れるともう夜露が降りていた。 眠る前の支度。川の旅最初の夜だ。食料の保管には特に思案を巡らせる。ごみを入れたポリ袋は口を縛ってバレルに含め、クーラーは空いたドライバッグに収めて、それらを坂の下まで運んだ。逆さにしたカヌーの下にそれらを収めて、これで良いものか、振り返りつつ焚き火に戻る。
 24時過ぎ、いつもの柔軟や肩のストレッチをしながら、火が尽きるのを見届けた。夏だというのにこうも冷えるのか。澄み切った空気、夜空に星が瞬いて見える。流れ星。北極星が高い。柄杓も地平線より上を優に回るだろう、海の水も湖の水も掬いそうにはない。別の名前が付けられているだろうか。テントに入って脚を伸ばす。荷物を軽くまとめたら、衣類を緩めて寝袋に脚を潜らせる。じんわりと温まってゆくのを感じる。ライフジャケットに頭を載せ、大きく一息。身体の力を抜くと、休息を求めていた肩と腕が心地良く、よく使ったようだと今頃実感が追ってきた。
 久しぶりの野営で、ふわふわと落ち着かないマットや滑りがちな寝袋の感覚。それでも和毛の布団や快適なベッドにはない、自然の中に生きる自由が心地良かった。