四月二九日(金)晴
七時。朝食も水分もとらずに再び参拝。コートとカメラ二台。頂上の「一の峰」まで回るならば三時間は掛かるということだったが、あまりよく考えずに、千本鳥居から撮り歩いた。観光客の姿もある。歩きながら頂上まで行くかどうか考えていたが、もう結論は出ていて、それを追認してゆくようなものだった。せっかく来た、見尽くしていく。また来るならば途中で帰ってもいいが、恐らくそのつもりではない。革靴、普段着。石段の山道を、間隔が多少開いてはいるがいまだに無数に並んでいる鳥居の下を通って上っていった。上らないと見られない景色があるのだ。よくぞここまで建てたものだなと感心する。石段まで備わっているし。
途中、京都の街を一望することが出来た。茶屋も何軒かあった。一時間ほど掛かっただろうか。ほどなく頂上にたどり着き、賽銭を投げた。手の平サイズから椅子の脚ほどのサイズまで様々ある鳥居のミニチュア、恐らく絵馬のように扱われているのであろうものが大量に並んでいたり、石碑に一対の狐の像が奉られているという墓石のようなものがたくさん並んでいたり。カラスめが一羽、お供えの菓子を狙って、あたりを跳ね回っていた。すずめならかわいいものだが、なにやら計算高そうな振る舞いが損をしているな。
別の道で下山。この道は長く感じた。しかし朝飯前でも何とかなるもので、楽しさの問題だと思う。神社参拝のつもりでくればつらいだろう。山登りのつもりでくれば何のことはない。緑深い森の間を、石段が続き、所々に手水や社がある。茶屋もある。もちろん鳥居も続いていた。麓に近づくと、楓が清々しい緑色の葉を陽光に晒していて、その影から見上げる空がとても美しかった。一〇時、本殿まで戻ってくると、もう凄い人の出で、ここぞとばかりに賑わっていた。御利益云々はともかく、人を集める力を有していることが分かる。
朝食。いい運動の後だ、もう何を食べても美味しい。最高だった。食物と、生きてあることに感謝。休憩と記録をした後、コーヒー屋で読書をすることにして移動した。昨夜と同じ所だ。一三時半、コーヒー屋でまずは記録。五時間半掛かっても終わらず、切り上げた。スターバックスはなかなかの行列で、二杯目のコーヒーを買うまでに一時間ほど躊躇して、結局途切れない列に並んで買った。商品の名前が長いから行列になるのだ。バニラなんとかなんとかなんとかかんとかだの、なんとかなんとかなんとかなんとかだの、寿限無寿限無なんとかなんとかなんとかなんとかだの。あとサイズの呼び方だ。しかしいい場所だ。
さて大阪方面に向けて走っていく。京都はあまり車での観光には向かないように思う。都会はだいたいそうだが。淀川沿いまでくると流れ星。こんな都会で珍しい。周りの荒い運転にせき立てられてとばしていく。二一時、四篠畷(しじょうなわて、畷は畦道を表す)で休憩。書店を回ったりすると空腹も限界を越えたのか、食欲が全くないというか満腹というか、とにかく内蔵が何かを訴えているのだが、要求がよく分からない。コーヒーを飲み過ぎたか。「いまならチョコミントアイスも旨く感じるのではないか?」という訳の分からない思考に憑かれて、箱買いしにいくほどには空腹だった。五本食べ尽くして、よく味わって感謝して食べることの大切さを改めて痛感した。二三時、大東中央公園付近で車をとめて休んだ。歯を磨いたが、使ってもいない歯磨き粉の味がし続けていた。