五月一日(日)快晴
四時半の予定だったが、五時に起きる。八分で日の出だ。眠気とカメラを携えて、昨夜と同じ階段を上る。これがまた絶景であった。街全体、青白くひっそりとしている。ふとみると神戸港のシンボル、ポートタワーの真上に下弦の月が、光を落ち着かせている。螺旋状の橋、ヴィーナスブリッジへ降りてゆくと、木々の途切れた先に、見事な朝日が出たところだった。まだ赤黒く、輝かないでいて、周りに朱、さらにその周りを蒼く照らしていた。昨夜よりも一段と澄んだ空気と静けさで、息をのむような清々しさだ。誰もいない。夜景ばかりではもったいない。一時間ほど写真を撮った。
朝食。八時半、淡路島経由で徳島へ向かう。大塚国際美術館に行かねばならない。「いつか行こう」が早一〇年経っている。たぶんそのままだと二〇年になってしまうだろう。そしてそのまま行かずに一生を終える。日本一チケットの高い美術館だそうだが、それもむしろ期待を募らせる。淡路島へ高速道路で渡り、さらに鳴門海峡を渡った。大きな橋からの景色は雄大で、海が朝陽をいっぱいに受けて青白く輝いていた。天気にも恵まれて、窓を開けると爽快だった。穏やかな田舎道、荷を担いで自転車で旅する人たちが多く見られた。五年前に自分もそのように走ったものだ。サングラス(花粉メガネ)を掛けてGackt様の歌まねを極めたところで高速道路を降り、一度北へ折り返す。丘を登りきったところに見えてきた大塚国際美術館。こんな場所に建っているのだなと感慨深い。駐車場に向かうともうものすごい車の数、交通整理の警備員が何人もいて、もっと先の臨時駐車場に行くように促された。その臨時の駐車場も埋まっていて、さらに先の港の臨時駐車場を使うように促された。もう美術館から一.五kmも離れていたが、無料のシャトルバスが出ているようだ。一〇時、港の海際に車を止めて、機材を整え、早めの食事。果物、野菜や豚肉を炒めて塩焼きそば、海辺で作るのがまたいい、味はもう最高だった。
二台のシャトルバスが客を待っていた。入場は落ち着いたのか、そのバスには自分一人だったが、すぐに出発してくれた。入場、チケットのデザインがまた粋である。長いエレベーターで上っていき、エントランスに踏み入れるとすぐ正面にとんでもない展示場がある。完全にシスティーナ礼拝堂、ミケランジェロの「最後の審判」が完全に再現されてそこにあった、なんなんだこれは!はやる気持ちを抑えながら、まずは初代館長・故大塚正士氏のあいさつ文を読む。心にしみ入る印象深い文章であった。世界中の名画が陶板に、原寸大で転写された複製が、1000点以上展示されている美術館である。単に数を集めたというだけでなく、その複製の技術が誕生した経緯や、その技術を用いて名画を再現し展示している意味、過去から未来にわたって世に貢献しようと願うその会社の使命の尊さを知った。たとえば原画は修復もされるが、劣化し続ける。それを陶板の複製として二〇〇〇年以上保存できるのだという。若い人々がここで世界中の名画の複製に触れ、将来そのオリジナルを見に行くことを願っている。また、鳴門の海の砂を陶板に用いたことへの礼を示す意味もあるという。観賞への期待がぐっと高まった。オリジナルに勝ることはないと考えていたが、絵画自体の意味を越えて、世に貢献するという意味を含んでいる。
そこから閉館までの五時間は、とてつもない密度、情報量だった。まず館内のすべての作品を見るだけで4km歩いたことになるそうだ。古代から中世、近代、現代にかけて、時代やテーマ、空間そのものまで再現した展示が、広いフロアー四階にわたってなされていた。まず先ほどのシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」と天井画の「創世記」を原寸大で再現した展示室。室どころか礼拝堂に等しい広さである。ざっと奥行き五〇m、横幅・高さ二五m。その建築の空間自体にそもそもパワーを感じるが、そこに圧倒的なスケールの絵画の再現。かつてヴァチカンでその実物を観たとき以上の感動があった。しかも手で触れることも、写真に収めることもできるという。夢中で写真を撮る。足を踏み入れた人はどの人も息をのんでたたずんでいた。BGMにはグレゴリオ・アレグリの「Miserere」が静かに響きわたって神秘的だ。そこに場内のアナウンスで「たけのこおこわ弁当がうんぬん」ときて笑ってしまった。心はもうヴァチカンにあったのだが、一瞬たけのこの入った炊き込みご飯を想像してお腹を空かせている。そんなことがあっても、とてつもないインパクトをはっきりと心に刻まれる展示であった。
そこからの展示数や展示方法も圧巻であった。フェルメール、レオナルド、ラファエロ、ボッティチェリ、ゴーギャン、セザンヌ、リュベンス、クロードモネ、オーギュストルノワール、ギュスターヴモロー、アンリルソー、ミレー、ゴヤ、ゴッホ、ムンク、ピカソ、ウィリアムブレイク…本当に、世界中の名画が集まっているのだった。全く贅沢な空間の連続だった。いままで何度も海外や美術館を巡って観て回った絵画や、メディアで目にしたそれに、思いも寄らず再会できたように感じた。古代の宗教画や墓や壺に描かれたデザイン、洞窟の壁画やモザイク画に至るまで、陶板に再現されていた。そしてなんと原寸大ということに加えて、絵画については額縁まで再現されているのだった。額縁あってこその展示といえるくらいだが、それを見事に成し遂げていた。
歩きに歩き、撮りに撮り、五時間、五〇〇枚。これだけ撮れば、もうカメラを持たずに、将来またゆっくりと観に来られることだろう…。土産物を選ぶ体力もなく、前職の後輩からの電話も上の空で聞き流し、ページ数の異様に多い作品一覧をもらって帰った。
車に戻ると、昼間と変わらず釣り人たちが海に糸を垂らしていた。もし自分がこの日釣りをしていたとしたら、全く別の時間を過ごしただろう。機材を車に仕舞い、興奮冷めやらぬ中、しかし疲れで呆然としながら、夕食にサンドイッチを作って食べた。少しの仮眠のつもりでシュラフの上に横になると、そのまま一〇時間眠り通した。予期していなかったが、あれだけの作品に触れれば当然か。どれだけ呼吸を止めて撮ったのだろうか。質のよい疲労だった。