8月28日(日) ユーコン川4日目
 8時半。8時半?それにしてはまだ日が照っていないようだ。曇りだろうか。外の様子を見に出る。急いでカメラを手に持って岸へ駆け寄る。
 幻想のようなまどろみのような霧霞に満ちた光景。その背後にはくっきりと、白く円い日輪の眼。
 真正面の白い世界を対岸の針葉樹、その最前列だけ浮かび上がって此岸彼岸を分け隔てる。霧が途切れて水面に陽光が射す。川、横一文字に銀に輝き、白くたなびく水煙が立ち昇る。眼前の水面、岸辺、山林を、覆い隠しかつ過ぎ去ってゆく朝靄、霧雲、水煙。
 陽に燦めき風に流れる水の粒子の千変万化が、夢の中での出来事のように印象を変え、明暗を変え、味わいを変える。
 雲に隠れて太陽が姿を消すまで、僅か5分の出来事とは思えない景色の変わり様だった。折良く目を醒ましたものだ。カメラを置いて柔軟。昨夜の火の残りを見てみると、一番太い薪がまだ温かみを残しているようだった。試しに火を加えてみると思いのほかすぐに焚き付けが済んだ。その火を生かそうと薪を集め始める。湿った生木の残りを運び出して、荷物から鋸を出し切り分ける。いくつかは火にくべ、いくつかは網の上に置き、もういくつかは釜のそばに。
 10時。調理の道具やバレル、クーラーなどの荷物を運び出し、焚き火で湯を沸かし、昨晩と同じ要領でライフジャケットを乾かした。風の通る所ではテントを乾かす。川の旅も4日目。朝夕の支度ももう慣れてきて、特段思考も必要がない。
 11時半。遅めの朝食はヨーグルトに苺とブルーベリーを添えて。ナッツとドライパイナップルのサラダにイタリアンドレッシング。木の匙と割り箸。豆腐とわかめの即席味噌汁も、身体が温まる。父は同じく味噌汁に、温め直した昨夜の夕食、パンの半分。
 12時。洗い物と片付け。空一面に広がっていたおぼろ雲、高層雲は西へ過ぎ、変わって白く輝く綿雲、積雲が浮かぶ。空も青々と爽やかで、南の山も入り江の水面も薄青く美しかった。日向にテントを移動して、寝具も合わせて引き続き干す。周辺の写真を撮る、真っ赤な林檎も陽光に美しくて撮った。
 上着を脱いで川辺に下り、繰り返し頭に水を被る。澄んだ水が心地良い。雫を払って火の前で髪を乾かしたら、テントや寝具、タープや小物類を片付けて出発の支度。天気予報には頼れない。川の上での脱ぎ着の手間は避けたい。肌に頼って上着の数を決め、レインウェア、ライフジャケット、カメラをその上に。この日はつば広の風通しの良い帽子も用意した。カヌーに荷物を積んで留め、水分や地図は手元に。舫い縄を解いてまとめ、カヌーを船尾から川に戻して乗り込む。
 13時出発。静かな入り江にふわりと浮かんだ。進路を向いたところでふと、タンブラーから少量、船首とパドルに水を献じた。この日の旅路の無事を願う。ここまでの旅の無事への薄謝。今日、全走行距離の折り返しを経るだろう。ここまでの経験の最たる基盤がこの小舟と櫂と流れる水であったとようやく気づいた。浮かべられて、運ばれて、潤され、清められ、導かれている。その川の恵みを受けて得た飲み水であったから、それを献ずることが自然に思われ、自然と手がそうした。
 またいずれ、それらの雫が自分のところへ巡ってくるだろう。人体の水分の100%、全体の約75%の原子が16日間で入れ替わるそうだ。1年間では身体の98%、5年でほぼ100%が環境と入れ替わる。
 また、地球を直径1mの球と見た場合、飲料水はたったの小匙1杯分だという。水全て集めてもコップに3杯。海は最深部でも1mmに届かない。スペースシャトルも地表から3cm浮かんだ程度。
 これまで自分の身体を造り、あるいは触れた水の分子が、この遠方、初めて旅する土地であっても見上げる雲に、降る雨に、漂う波に、舞う霧に、掬う水面に、飲む水に、食べる果実に、吹く風に、ざわめく木々に、鳥・虫・獣に、行き会う人に、交わす茶に・・・再び含まれていてまた巡り合わせてもおよそ不思議ではない。
 船首に残る水滴、川を撫でるパドル。この舟は、進水式など経たのだろうか。酒類を捧げるのが通例だろうが、国柄や類似の作法などはあるのだろうか。そう思いながら漕ぎ出してすぐ、中洲を左手に眺める。”SHIPYARD ISLAND”。名前の通り、その中央には汽船”EVELYN”が、まるで洲の地面や植物と同化したような姿で鎮座していた。
「船がなぜこんなところに」と驚く。全長40m、3階建てほどもある!
 地図の歴史ページを読むと解説があった。かつてこれらの汽船は冬の間、整備された岸や洲などの陸上で保守・保管されたという。冬に凍結するラバージュ湖表面の氷は、川の水が再び流れ出した後も長く凍ったままで残るそうだ。船を下流域に残しておくことで、ラバージュ湖以下の流域のみでも、春の早い時期からに船を稼働・操業できる利点があった。その為近辺には6~7艘の船を保管できる場所が用意され、その一つがこの中洲”SHIPYARD ISLAND”であったという。
 「通路には潤滑油、間に板や船架・船台を挟み、取り付けられたケーブルを陸地の馬力の錨巻きや蒸気ウインチで引き上げる。川の流れと平行に据え、冬期の水位を考慮してジャッキアップやせき止めなどが施された」という。中洲には今でも錨巻きも残っており、図太い丸太の巻き軸をもつ万力の姿が写真にあった。
 中洲に、時代に、取り残されたような汽船”EVELYN”も、川と平行に南を向いていた。1908年にシアトルで建造され、1918年にはこの中洲に上げられたという。その間事故・売却・修復・改名等を数度経て、当初の名の”EVELYN”に戻っている。内部の機械類や部品等が別の船”Keno”に引き継がれ転用されたそうだ。
 雑草にうずまる錆びた船底、その上に木造の船室が前後に長くあり、更に上にも船室が乗っている。しかし中間あたりはもう崩れて一部屋根を見せており、後方も辛うじて左舷の壁が残っている程度。壁は全体に黒ずんだ錆色。四角い窓や出入り口が暗い船内の虚空を覗かせている。船首側の2階屋根から煙突が出ているが、それも後方向きに倒れかかっていた。
 これではもう、只くずおれて枯れ尽くし、草木に埋もれ、風に雨に吹かれ流され消えるのを待つだけだろう。過ぎ去るまで、目が離せなかった。まるで100年以上も前から、この一瞥を待っていたかのようだ。
 英語では古く、船に対する代名詞に”She”を用いた。現代でも使われるし、川地図でもそうだった。”She”といえば海の”Sea”や日本語の「潮・汐」、「塩」に発音が似ている。船の”Ship”も多少。「兄弟船」とは言わず「姉妹船」と言うのは英語でも同様である。人々の生活全てを乗せて運びうる様な規模の船、マスト3本以上のもの等を、ボートと分けてシップと呼ぶようである。何かを「生み」出すものの象徴として「海」や、包含するもの養うもの、「母性」にまつわる対象に女性性を投影するのだろうか。赤ん坊が最初に発音する子音は”m”で、それがまず「母」を指す言葉をつくる。
・mama(ママ)、mother(母)、
 madame(婦人)、媽媽(母:発音”マーマー”)
・milk(ミルク)、mammal(哺乳類)、ままごと
・mer(海)、mare(海・雌馬)、marine(海の)、海(u-mi)
・womb(子宮・発生・核心:発音”ウーム”)、生む(u-mu)、
 woman(女性)
 その語の発生・誕生に、人の口唇や聴覚の物理的機能、耳触りや印象などの内的感覚が影響する。異言語でも共通する影響はあるだろう。字も記号も、遺伝子と同様に伝達されながら複製・保存され、人の意志とは関わりなくそれ自体を増殖させる働きを見せる。情報遺伝子・ミーム。水同様、人々の意思から意思へと循環し、思考の流れを生み出し、終わりなく巡って後代に引き継がれる。
 自分の名にも海の字が。命名の父が最も好む字だと言う。姉の名にも、甥や姪の名にも。この間死んだうちの犬には、とある探検船の名を付けた。船100年。言葉1000年。文字1万年。いずれも何かを運ぶ”乗り物”。川とカヌーに運ばれている自分たち自身も、関わる人へ、生まれ養われる後代へ、何かを運んでいるのだと思う。善きものが運ばれるように。
 13時40分、4km進んで累計140km地点、”DAVIS POINT”。通り抜ける涼風が心地良かった。風景は相変わらずで緑の低木、広葉樹、針葉樹の岸沿いを行く。赤や黄色に色づいた落ち葉に飾られている岸辺も見られた。正面遠くの山を目印に、近づくにつれだんだんと山肌がはっきりと見えて、川の右か左かに見えるほど近づくともう忘れ、次の正面遠くの山を目指していた。晴れ空に浮かんだ綿雲の陰影。川は雨の影響か、岸辺の砂の色に濁っている。
 13時55分、川地図に初めて現れた表記、恐怖のLP!それが間もなく目前に。巨鳥が巣作りでもしたのかというほど、右岸のひと所に積み上がって岸を埋める丸太の堆積”Log Pile”。川の流れを受けて水音を立てている。岸にぶつかるのとは違って、積み上がった丸太の高さや隙間や向きが複雑、でたらめに突き出しているので、水流で押し込まれたり挟まれたりすると危険だろう。
 14時15分、地図に”OLD BURN”の表記が多い。その方向を見渡してみると、これまでの緑色から一変、針葉樹が一斉に立ち枯れを起こしたように、乾いた幹と僅かの枝々を残して寒々しく並んでいた。山の斜面にも同じように枯れ木が混ざったような部分がある。背後に透かし見る空の青さが虚しい。山火事の跡で、広い範囲に渡って点々と枯れ木の集団を作っていたり、岸辺の一方を数百mに渡って焦がしていたりするのだった。
 昔アルバータの山奥でも見たことがあった。木々の幹であったものが黒く立ち尽くし、見渡す限りの丘を焼き尽くしていた。血も涙もない、荒涼として、まるで墓標を立て列べたような光景であった。夏過ぎには消火が追いつかず、街中が薄く煙ったような日が続くこともあった。煙が日光に影響して、真昼でも夕暮れ刻のようだった。
 しかしここで見る枯れ木の根元には真新しく鮮やかな緑の草木が芽吹き、土地を覆っている。”自然災害”には破壊や悲惨さのイメージが伴うが、山火事は森の健康を保つ自然のサイクルとしても機能している。「住宅地に被害が及んだ」とか「小規模に反復することで大災害を免れている」とか、文脈や背景が定まらないことには一事象の価値判断はできない。事象の”客観的評価”は、人間ごときの知性ではほとんど不可能だと思う。
 14時25分、”KLONDIKE BEND”の連続カーブに差し掛かる。「己」の字ように逆S字を描くカーブで、右に曲がる左岸がこれまでにない鋭い起伏をもった岩壁になっていた。その右カーブの終わりに中洲があり、続いて左カーブに差し掛かる。そこが再びの浅瀬で、川底の砂利が過ぎてゆく快速を眺めていたらガラガラと音を立てて乗り上げた。パドルで押しても進まず、後席父が下りてカヌーを1~2mほど押すと再び浮力を得る。
 実はこの”KLONDIKE BEND”に、沈んだ船の船体下部が今でも残されている。水位が低ければその姿が見えるそうだ。その船の名が”KLONDIKE #1″であり、今では場所の名前として川を旅する人々に見聞きされている。由来を知って初めて、単なるカーブが歴史や情報をもったものになる。周囲の景色はその当時からほとんど変わっていないだろう。本当にこの場所を汽船が往来し、人々が行き来し、かつての暮らしがあって、事故に見舞われた人々がいたことに想像が及ぶ。
「1936年、経験僅かの操舵手が上手く船の針路を取れず、岩壁に衝突し制御不能となった。”KLONDIKE #1″は全長64m、総重量1285tもの大型。船体が衝突で横に大きく曲げられ、そのまま岸にぶつかりながら漂ったので両舷に多くの穴が空き沈み出した。乗客の救助は場当たり的ながら最後には全員が助けられた。中には船室のドアを斧で破って救い出された者もあった。機材や数頭の牛、ほとんどの貨物は失われ、後に150km以上も離れた場所で引き上げられたりもした。船員は助けを求める電報を打ちに岸を走った。船が送られ、人々をドーソンまで送った。その後水位が下がってから、この船のエンジンや上部船室等の多くが取り外されて”KLONDIKE #2″に転用された。(“KLONDIKE #2″はホワイトホースで今も展示されている。)著者の古い友人ルディーブライアンは当時、沈み行くこの船に乗船していた。ユーコンへの初めての旅路におけるこの出来事が、彼の北方での経験を際立たせる。人生に巻き起こる冒険を思慮深く捉える彼は、いつもこの話題に笑みを見せた。もう一人の良き友人フィリスシンプソンも当時6歳、母と共に沈み行くその船に乗り合わせていた。水の漏れ入る救助艇に乗ると、母ともう一人の女性は気も狂わんばかりに手で水を掻き出したという。雨の一日を経て下流への旅を再開した。彼らが愛着を込めて「蚊の島」と呼ぶ場所から」
 そんなことがあったのかと、なお生き生きとした想像が膨らむ。カヌーが浅瀬に乗り上げたなんて全く可愛らしいものだ。当事者として経験すること、記録されたこと、その現地、現場に立つこと。主観と歴史と、想像と現実とが交差する不思議な経験の地点に立つ感覚。旅の風情。
 14時40分。この日の14km地点は累計で150km、全行程の半分を進んだ。7日間の内4日目の昼、丁度良いペースだ。出立からの一櫂一櫂がここまで導いた。目的地へ辿り着かせるのも価値の等しい一櫂一櫂。目前のひとストローク、ひと目の光景、ひと呼吸に傾注を。
 進路の方角に目を引く山。急峻ではないが、広い斜面は鮮やかな黄緑とまばらな黄色で美しい。背景の真っ青な空とふわふわの綿雲に良く対比する。周囲の岸辺と同様に、かつて山火事に燃えた枯れ木が全面に渡って並んでいた。また頂上から西向きに岩肌の崖が見えており、赤土に似た、黒い横筋の入った地層を見せている。
 晴れ晴れとして暑いくらいだった。上着のファスナーを下げて風を通す。”SCOW BAY”付近、左岸寄りに川幅が広がって、流れの逆巻いている場所があった。丁度木陰になっているのでほんの5分ほど水上に留まって休む。カヌーは左にひと回りしたが流されはせず、木陰に留まっていられた。留まる水の上から眺める川の本流は速く、水面が一度に押し寄せて過ぎていく。逆流と本流の境目では対流が渦を巻き、筆記したような波紋で繋がったり途切れたりして過ぎてゆく。取り残されそうに感じてすぐに本流に戻った。
 15時。20km地点。さっきの山を左手に通り過ぎると「弓」の字のような折り返しの長いカーブの連続。太陽を左右に見たり背にしたり。珍しく橙色の蝶や蜂を見かける。山の景色も珍しい。というのは例の枯れ木が白く風化し、斜面や尾根や峰々に立ち並んでいる様子が、まさしく針山のようであったから。日本の冬枯れの山とは違ってこの夏空の下、緑の若葉の彩りもあり、綿雲が所々に影のまだらを落としているのだ。
 16時、早くも30km地点。涼風が続き快適。真っ白な雲を背景に、一機の小型飛行機が過ぎてゆく。その音の響き渡るのが聞こえなくなってようやく、静寂の中を旅していたことに気づく。それだけでも貴重な時間を過ごしている。音に警戒しなくていいこと。音に注意を促されずにいられること。何も聞かずにいられること。ハクトウワシが静かに飛んで去った。
 17時、再びの「弓」の字カーブ。古い小さな丸太小屋やそびえるような岸の岩壁、いくつかの砂利の洲などを通り過ぎ、東岸寄りの木陰を快適な速度で下った。地図には”POTENTIAL CAMP”の表記ばかりが並ぶ中、東向きから北に折れた右岸の角に”GOOD CAMP”、”BIG EDDY WOOD CAMP”があった。流れの弱い白濁した江に着けて休憩に。訳せば「大渦の森キャンプ」、かつては所有者のあった大野営地で小屋も建っていたそうだ。森の奥へと木を避け続く土肌の小道を見かけたが、「泊まるわけでもないから」と抜け出るところまでは散策しなかった。岸は南岸木々の影、すぐに身体が冷えてくる。これでは寒くて休まらない、剥いた蜜柑を口に押し込み、いたたまれずに20分で舟に戻る。
 陽に当たりながら尚北へ。”UPPER CASSIAR BAR”付近、7羽の鴨が飛び立つ。18時、”LOWER CASSIAR BAR”付近、”POTENTIAL CAMP”前の岸に一層のカヌー、岸の上には張られたタープが見えた。人の姿は見えなかったが、先に出発していたテスリン川からの旅人だろう。泊まるのだろうか。
 もしかすると金の採掘。かつてユーコン川の上流域で最大の金の採掘場所となったのがここ”CASSIAR BAR”付近であったそうだ。バンクーバー属するブリティッシュコロンビア州で同じく金の採掘場であった土地の名が由来。4人組が30日間で6000ドル稼いだという。1897年頃までは手作業でバールを使って採掘していたとか。砂金さらいの作業機械の貸し出し事業が競争を激化して、1898年から1909年までに価格を100ドル/マイル/年から10ドル/マイル/年にまで下がったとある。作業が他所に移転するまでに、この付近でおよそ4万立方メートルが金のさらい出しを通ったという。
 18時15分、左岸の曲がり角に支流の流れ込む音。少し進むと石や砂が落ちる音が聞こえてきた。目を向ければ今まさに、高さ10mほどもある赤土の砂岸が、その断層を露わにしている斜面の石や砂やを、川へと落としこぼしている。からからころころさらさらと音を立てる。それほどの量には見えないが、これがひと月、1年、1世紀と続けば見る影も無くなりそうだ。その岸の上には針葉樹が並んでおり、芝の生えた面もあるのだが、よく見ればその崩れる斜面には、逆さに倒れた成木や幼木がまな板の鯉、川に落とされる瞬間を黙って待っているのだった。さっきの7羽の鴨や、カヌーが駐まった近くでもLPを見かけたが、この後見かける丸太や流木には、眺めてきた立木とかつて隣り合わせに並んでいたものもあるかもしれない。
 崖の崩れる音が過ぎ去った頃、今度は砂の流れるような「サー」という小さな音が聞こえてきた。右からでも左からでもなく、足元、カヌー側面の内側から聞こえる。スコットから知らされていなかったら訳も分からず仕舞いだったろう。細かい砂の粒子が船底や船べりに当たる音なのだそうだ。”Giant Snake”大蛇などと呼ぶらしい。さっきの砂崩れの影響なのか。多少濁っては見えるが、手で水を掬っても何も含まれてはいないように見える。それでもこんなに音が立つだろうか。まるで姿を見せない大蛇でもいるかのようだ。
 18時30分。”GOOD CAMP”前で再びカヌーを見かける。1995年に狭小の山火事があった場所らしい。煙が見える!もちろん焚き火。岸辺に現れた中年の白人男性から「オオイ!」と呼び声が。「HELLO」と手を振って応える。「どちらから?!」「日本!」「ドイツ!」「それじゃあ」「SAYONARA!」え!日本語!過ぎゆく岸との遣り取りは小刻み。テスリン川から、御一人だろうか。丁度この日の50km地点だった。
 良い風が続いている。流れも快適。空高くにはすじ雲がうっすらと白い。遠くの山際には綿雲が残っている。両岸は低く平らで針葉樹林が広がっている。まだ明るいが進んだ距離も充分、そろそろ今夜の野営地を決めて休みたい。
 間もなく”BIG SALMON RIVER”が右手、東から合流する。その右岸すぐの辺りが”BIG SALMON VILLAGE”で、”GOOD CAMP”の表記が並んでいた。こうなると快適な川の流れが困難に変わる。左の川から進み出て、右から注ぐ流れに負けず、右岸にそのまま駐まれるか。そんなことを考えていて、実は合流前の右岸にも”GOOD CAMP”があるのを見逃していた。
 いざ合流、なるべく右手、右岸寄りへ。しかし漕ぎ進めると勢いが付いてしまう。横からの水流にカヌーが煽られ、東からの流れに東を向く。そのまま後退してゆくカヌー、パドルで必死に流れに逆らう。何とか漕ぎ切り支流の口の東岸に着け、瀬にパドルを突き立てて維持。だが見渡しても村どころか陸地になっていない砂利。どういうことだ。例えもっと上流側だとしても、これ以上は遡れない。下流側を探すほかない。突き立てたパドルを外してよいものか。悩んでも進むしかない。
 18時45分。流れに任せて後退すると、下流すぐ、支流に平行に伸びる入り江があった。そしてその入り口には、アウトドア用の椅子と木製のテーブルの置かれた岸が。「こちらだったのか」と安堵して着岸するのだが水際の間口は狭く、それが陸側に湾曲していてカヌーを横付けすることも岸に上げることもできなかった。独り陸の上の観察に上がったが、野営に使われる場所でもなさそうだった。
 他の岸を探すことに。東に伸びる入り江を進む。凪いで波一つ無いのだが、水面のそこらじゅうに顔を出す細い草がどこまでも続いている。30cmほどの高さに割り箸ほどの太さの薄緑、3~4cmの間隔で筍のような節が見えた。そっとパドルを動かしながらゆっくり進んでいると蚊に追われ始める。進んでみても上がれそうな場所は無く、蚊も厭わしくて入り江の口に戻った。
 どうしたものかと地図を改める。”BIG SALMON VILLAGE”の表記のすぐ上に”GOOD CAMP”と書かれており、それぞれから短い指示線が伸びているので同一の場所ではないらしかった。つまり北へ進んだ先、下流側にもう少し下った所に位置しているようである。それが正しいとしても川の勢いがあって上手く着岸できるか分からない。ここを逃すと次の野営地は10km先の”POTENTIAL CAMP”、”GOOD CAMP”へは20km先になってしまう。悩んでも進むほかないのだが。
 入り江を出て恐る恐る主流に乗り、右岸寄りを下り始める。芝草や踏みならされた土肌の岸が見えた。石や丸太がわざわざ置かれたような所にあって、上り下りに使われる坂もある。しかし岸にやや高さがあり、舳先から入って駐まるようなことはできない。右回りにカヌーの向きを変えて左舷から横付けに着岸。こんな所にカヌーを持ち上げられるのかはさておき、まずは野営地の有無。岸の上の様子を見ておこうと坂を上がる。木々の間にいくつかのテーブルや荷台、石で囲んだ火床もあり、地面も平らで柔らかそうだ。これはいい、良く整えられた場所、”GOOD CAMP”に違いない。
 19時30分。カヌーに戻って停泊を決め、荷下ろしのために舫い縄を伸ばして丈夫な木に結び直す。岸よりも低い位置に浮かんだカヌーから、重い荷物を引き上げる。あまりの重さに川にどぼん。それが思い浮かぶので重心を足に残した。荷物を坂の上まで運んだら、カヌーを岸に上げて置きたかった。果たして持ち上げられるのか。二人で声を合わせ船首船尾を持ち上げてみると何のことはない、「こんなに軽いものなのか」と驚く。案ずるよりもだ。
 無事に見つけられて良かった。それに良く整っていて快適そうだ。何より振り返る岸からの眺めが良い。草木の茂み、音も無しに流れ続ける広い川、対岸向こうで遠くなるほど空気の色に染まる山々、うね雲すじ雲ひつじ雲の空、夕焼けも見られるだろう。そばの枯れ枝の先に厚手の両靴下が掛けられ忘れられていた。迷い靴下。
 写真を数枚撮って、大木の根元に沿うように作られた荷置き台や木製のテーブルにカメラや地図、水筒、ベアスプレーや帽子を置いておき、ライフジャケットを脱いで木の枝に掛ける。銀河系最強の蚊取り線香を焚き付けておく。ドライバッグからテントを出し、炊事場所から少し離れた木々の間を観察、平らな地面で木屑や落ち葉などが柔らかく温かそうな場所に決め、5分で設営。良い場所だ。寝具も用意し荷物を入れておいた。
 薪を探しながら周辺の観察、陸側奥の茂みに進むと、見たこともないツノ付きの茶鳩がいた!つがいか、ツノ有りツノ無し2羽で飛び去った。驚いた、鬼の血でも引いたのか。その更に奥には手洗いのブースまであった。村のそばだからなのか、良く整備されているものだ。
 薪を手に火床に戻る。風除けの為に拳大の大きな石がいくつも積まれていた。鍋を据えられるように積み直していく。気が済んだところで付近に置かれていた薪を折り分け、火床に並べて焚き付けた。充分乾いていて、何の苦もなく焚き火が始まるのだった。鍋に水を入れ手前の石の平らな面に置いておく。
 20時30分、調理を始める。ナイフまな板、ガス缶ストーブ、メスティン割り箸、油と塩胡椒。始めに林檎を切って半分、食前の補給に。続いて毎度おなじみ玉葱をみじん切り、炒めて色が透き通ってきたら剥き茹で海老を加え、温まったら卵を3個、残りも3個。水気を飛ばして塩胡椒。
 作りながら「これはなんという料理だっけ」と名前を探して首をかしげる。「玉葱と海老を炒めて玉子でとじたやーつ」だったか。若干違う気がする。「玉葱も海老も玉子も炒めたやーつ」か。「チャーハンかスープにすれば良いのにー」か?やかましいわと火を止めて、味を見て、なんか甘いがまあええやろで一人分は皿によそい、自分の分はメスティンそのまま。沸いた湯で即席味噌汁、林檎のもう半分を切り、行動食の余りのナッツ。調理器具等をざっと片付ける。
 21時、夕食。あり合わせだがこの奥地でなら不満もない、栄養にもなるだろう。小椅子を出して腰掛けて、手を合わせてひと呼吸。無事なだけでなく、天気に恵まれ、また快適なキャンプ地にも辿り着いた。そして目の前に用意された温かい料理、甘く鮮やかな果実、滋養の詰まった種実。温かい内に。丁度暮れてゆく静穏な風景の中で、飢え渇きを癒やす。
 自然の中、調和が思考を不要にする。何も対立しているものがない。名前も持たず、何の分析も解釈も要らないまま、旅に立ち寄る者を迎え養う。
 21時30分、夕焼け刻だった。食後に再びカメラを持って川の夕景を撮る。川の行く先、北西の山の背後で赤々としているのであろう夕日が、山際を明るい朱に、雲の低い面を橙に、上空にかけて淡く赤く、川もそれらを反映し、徐々に光を弱めていく。
 食器や調理用具を片付ける。割り箸や拭った紙は火に。
 22時、バレルやクーラーを岸に運んでカヌーの下に。奥行きの狭い岸だったが逆さにして、陸寄りに寝かせた。焚き火の前で歯を磨き、いつもの柔軟をして火を見届ける。
 23時、テントで身体を拭って着替え、この日の記録や日記を済ませた。走行53km、着岸前に入り江を彷徨っていた30分を除けば、休憩を含めても5時間。どちらにしても時速10km前後で累積189km。順調だ。
 23時30分に眠った。すぐそばで、広い川の水がなみなみと流れ続けている。