8月30日(火) ユーコン川6日目
 9時、柔軟。薪を切り積んでおく。葉の残る細い枝先も重ねていざ焚き付け。昨晩60分の苦しみを耐え抜き希望の炎を燃え上がらせたわたくしは強い。朝露ごときには屈しない。それを試すかのような更なる試練、小雨の中で90分。こんな薪は全て焼き払ってしまえばいい!再びガス缶に据えたストーブでごうごうと炎を浴びせた。右の人差し指まで火傷した。火床に押し込もうとして火の当たっていない生木の断面に触れたが、幹の先から内部の水分が沸騰して出ていたようだ。
 10時半、ようやく薪に付いた火を写真に収めた。ビクトリーである。しかし背景が崩れた岸に倒木ばかりで荒れ果てており薪の積み方も雑ときて、まるで山火事でも企図して火を放ったような写真になった。ともかく湯を沸かす。砂洲のカヌー下からバレルやクーラーを運び出す。湿った衣類等を干しておく。昨晩は日陰で寒かったが、朝は東から陽が注ぐ。これも人生。
 今、食う寝る進むに必死の人生。唇のひび割れ、手先の荒れが酷い。聞こえる音は水の音、風の音、木々の音、火の音、そして無音。必要な行為に余さず寿命を注ぐ、簡素な生活。思考を削ぎ、行為に傾注する。屋根も壁も水道も無い。布団もソファーもベッドも無い。電気も明かりも街灯も無い。スーパーもコンビニもレストランも無い。電話もメディアもネットワークも無い。
 おお、無いことの豊かさよ。「あれをこれを」と追い求める欲や仮説の心の喚きを手放して、授かったもの静かに味わうときにだけ、安らかさという本当に豊かな時を経験できるのか。
 荷運びの行き来の途中で気が付いたのだが、針葉樹の表面に滴るほどの樹液が出ていた。松脂の類だろう、結晶はやや黄色くべたつく。ゴアテックスのレインウェアでも粘り着くと落とせなかった。
 11時、朝食。食料をあさっていると杏が出てきた。丁度1週間前にバンクーバーで買ったものだ。すっかり忘れていた。その他林檎、蜜柑、もらったオレンジ、ヨーグルトとチーズ、ナッツ、茄子の味噌汁を用意する。果物類をナイフで切り分けていく。杏は未だ瑞々しく、どれよりも美味しそうに見えヨーグルトともよく合った。チーズも美味しい。茄子の味噌汁も更に美味しい。ラバージュ湖の終わりでもらったオレンジは果肉が赤く、蜜柑よりも甘い。良いものをもらっていたようだ。ブラッシングのファントムが想念を追い回し始める。まるで朝食後に歯を磨いてしまったような気分だ。
 12時、水際に下り支流の水を汲んで濾過作業。テントの前の河原の水は、日本の谷川の渓流のように清らかで冷たく、多めに濾過して携えた。それに続けて顔や頭に水を被る。さっぱりとして気分が良い。焚き火に当たって髪を乾かす。再度ブーツも乾かしておく。その後テントや寝具はよく砂を落としてから片付けて、身に着けるものを選んで荷物をまとめ、砂洲のカヌーまで運び下ろす。タープも忘れずに。カヌーを水際に押し出して荷物を積み込む。曇り空で涼しい。
 13時半。ブーツに付いたぬかるむ洲の砂を、入り江の水で濯いでからカヌーに乗り込み、”GOOD CAMP:試練の岸”を後にした。
 水上にふわりと浮かぶと、安堵が湧いた。これまで漕ぎ始めは緊張し気の張ることの方が多かったから、不思議な感覚だった。昨晩の、到着からの経験を思えば早く立ち去りたかったのかもしれない。ーーーびしょ濡れで到着した荒んだ岸辺、陽の当たる先客の彼岸、湿った衣類に濡れた薪、砂にまみれて陽の当たらない森の影で、寒さと疲れの中で尚風雨に身を晒しながら、付かない焚き火に1時間費やした。ーーー惨めな思いに呑まれずに済んで良かった。過ぎ去れば良い日だ。今後、雨風にひしがれるようなときには思い出すだろう。無事に乗り越えたことを思おう。
 対岸のグループは午前のうちに出発していた。我々と入れ違うように、入り江に到着する二人乗り1艘もあった。前席に白髪の、後席に黒い帽子の方。遠目に雨具をまとっているように見える。
 さて、ゴールのときが近い。パドルを置いて川の流れに任せ、地図を確認した。残り70kmほどだ。35km地点の前後で”GOOD CAMP”が有ると良いのだが、29km先か、55.5km先かになる。29km先での停泊と、明日42.5kmの走行を以てカーマックス到着を目指すことにした。となるとこの日は3~4時間で着岸ということか。多少気を抜いても辿り着く距離だ。当初必要だった距離や時間の計算、野営場所の選択などがこれでもう不要になった。辿り着くのか間に合うのかという不安も消えている。
 ならばあとはゆっくり周りの景色でも眺めて進めば良いのだろうが、もう景色にも慣れ切って、大して写真も撮らずにいられるようになっていた。空の青、岸辺の緑、映す川。それが只々延々続く。もの珍しさに注目する必要もないし、何か新しいものを探す必要もないし、急な変化に注意する必要もない。暇を余して陸でしたいことなど書き出していた。日記、ノート、読書、音楽、珈琲屋、写真の整理、湯船、洗濯、散髪、石鹸、爪切り、マッサージ、ブーツ磨き、御茶、生野菜・・・挙げ句の果てには「上海台湾ニュージーランド」などと行きたい場所など書き並べている始末。都市の歓楽が恋しいのか?
「未来の予想なんて壁の無い穴だ」という言葉の通りである。長い企画や手続きを経て、ようやく辿り着いた1万km先、憧れの川で1週間と待たずに飽きる。
 ならばこれらの書き連ねたしたいことも行きたい場所も、実現したときどれだけ思いに報いるだろうか。また次のしたいこと、行きたい場所に置き換えられるだけかもしれない。好奇心が募らせる、予期や期待のたちの悪さか贅沢か。
 ただ少なくともいま「ここへ行きたい」という場所のひとつ、願いのひとつ、不均衡のひとつは消し去ることが出来るだろう。「飽き飽きして帰る」ほうが「燃え尽きもせず帰る」より。もう旅せずにいられる場所になりつつある。少なくともしばらくは。
 本当にもうどこも旅せずにいられるとしたら。何も撮らずにおれるとしたら、それはどれほど安らかだろうか。
 行き着く問い、希求を止めて、不均衡の根を断ち折るには?
 アタマの問いにはハートが答える。
 行き着く答え、希求を止めて、不均衡の根を断ち折るだけ。
 全霊注げる挑戦の末。
 14時過ぎ、7km地点”WOLF BAR”、特に目立ったものはない、由来も歴史も書かれていない。肌寒くなり、雨が降り出した。心を無にしてやり過ごす。
 15時、14km、南左手から日照り、雨露乾き身温まるまではありがたいが、そこから先は暑く眩しく気力を削ぐ。
 15時半、19km地点で”LITTLE SALMON RIVER”が北からユーコン川に注ぐ。そこから1kmほど進めば右岸に”LITTLE SALMON VILLAGE”が見えるはずだ。この村を見たら到着のカーマックスまでは残り6~7時間。歴史的な遺物としては伝道の施設と小屋、無数の”spirit houses”(先住民の墓碑)が残るばかりだという。ーーー
 1880年代初めに、採掘労働者たちが土地語に等しい意味の英語で呼び始めたのが村の名前の”LITTLE SALMON”。
 1897年11月11日、北西騎馬警察が治安判事を含む政府役人を連れ立った際、この場所で氷に行き当たり舟を引き上げねばならなかった。即座に小屋を造り上げたという。同月17日には氷が川をせき止め、ほんの2~3時間で5mも水位を上昇させた。
 1898年から翌年にかけて、駐在所が左岸に再度設置された。
 1899年、客船事務長の記録では支流口の反対側には、規模のある明媚なインディアン村が存在していて、宣教師1人の他白人定住者はいなかったという。その村こそは、純粋なユーコンインディアンの文化と原始生活を残す最も際だった例であるとされた。
 1900年から1902年にかけて、年中営業の換金所が運営されていた。その他商店や教会、多くの仮小屋が有ったらしい。商店の店番は月100ドルと食料・住まいを与えられていた。店番らは貿易会社で数十年働いた後、何にも使う当てのない資産を銀行に残してこの地で過ごしたという記録もある。冬場の猟の時期、先住民たちがこの土地を離れるとそれは侘しい暮らしであったという。
 教会と学校が1913年から1914年に建設されたが1920年には実質定住は放棄され1928年、公式に役目を終えた。平屋の丸太造りの建物が2つ、川地図に写真で載っている。
 1915年、”LITTLE SALMON RIVER”からすぐ下流の土地でムースの牧場設置が計画された。近隣には貿易会社の商店、納屋、キャンプ場が有人で運営されており、また15棟前後の先住民の小屋があったという。当地区定住の住民を除いて、60~80人の先住民が毎春この地区へ取引に訪れた。
 1916年までに北方の”Frenchman Lake”まで8kmの貨車軌道が敷かれ、丘には奥行き30mのトンネルが掘られ冷蔵に使われた。
 1917年から1919年、インフルエンザの流行でこの集落はほぼ一掃された。その後通年で定住する人は絶え、一年の大半、村は放置されたという。
 1920年、気船”WASHBURN”が支流口の東で沈んだ。
 1939年までに、3000m以上に及ぶ緊急用滑走路が北方30km先の”LITTLE SALMON LAKE”に建設され、1942年の夏には米国政府の協力で、アラスカとブリティッシュコロンビアを結ぶ鉄道の建設が可能かどうかが調査された。二次大戦でのアラスカへの支援の為であった。今日の”Campbell Highway”沿い近くを辿ったものであった。
 現在はそれらの建築の輪郭にいくつかの遺物と、崩落した冷蔵トンネルの窪みが残るだけである。村や霊場の見学には地元職員の許可が必要だそうだ。ーーー
 真っ赤な三角屋根が緑の木々の隙間に見えてきた。黄色に色づく低木の並ぶ右岸。黄色が途切れて土肌を見せる岸辺があり、白樺の幹の白がその奥に。そしてその後ろに建つ木造、赤い屋根。小屋を二つ、少し離して建てた間を同じ色の屋根が繋いでいるような造りで、渡り廊下か東屋でも挟んだような造りだった。何の施設か、これ以上の情報には行き着かない。観光向きの事務所か何かか。機能はともかく赤く真新しげに鮮やかで、周囲の木々、背後の丘、空の青と真っ白な雲に良く映える。”ひと気”を感じる。人の姿は見えないが、その建築が今現在、何かの機能を宿している印象。
 人里離れた奥地僻地の川暮らしが終わろうとしていることを察する。そのすぐ下流で数日ぶりに、道路と車と走行音。文明社会に戻って来たようだ。やや懐かしく頼もしく、しかし騒々しさと厭わしさを埋め合わせはしない。もう飽き飽きして日常に戻りたいとは思っても、都会の暮らしの喧噪に戻りたい訳ではないのかもしれない。
 それを過ぎれば再び見慣れた青と緑と水面の反映。こんな場所に、人の集まる集落があったのか。氷の流れる川のそばに、商店や、学校や、家や牧場や教会が。目で見る景色に引きずられて、可能性を想像できない。だがここまでに1万kmも辿った己が流れ着くなら、近所の者には容易いのだろう。いわれてみればかくいう自分も零下30度の山奥暮らしでひと冬を過ごした。蜜柑を剥いたり習字をやったりしていた。案外何とかなるものか。
 漕がずにぼんやり流していると中洲の連続、三つ叉に瀬が分かれている。流されて唯一矢印の無い南寄りの瀬に入ってしまったが、何のことはない。むしろ左岸沿いの木陰が助かる。西向きの航路、昼過ぎからは低めの太陽ひとつ照りつけるだけでなく、水面に照り返すもうひとつまで、顔の左を焦がすようだった。川が南に向くともう眩しくて、パドルを逆さに舟底に立て、細いシャフトと先のブレードで光を遮り続けないではいられなかった。柄を伝う櫂の雫、袖口を濡らさぬようにと引き寄せると、手に刻まれた日焼けの跡はますます濃くはっきりしていた。過剰な光の入力が苦しい。風は涼しく汗も出ないが、この強すぎる陽向きの進路はつらかった。
 16時15分、26.5km、間もなくだ。川は変わらず穏やかで、遠くに目立つ山を見ながら西へと続く。右岸に高さ2mほどの岸、上辺は草の地面で焼けた枯れ木が並んでいる。質は崩れやすそうな砂岸だが、高さも角度もないので草木が残って黄色、黄緑。そして見通す向こうの空が、森にも岸にも遮られず、遠く高く深く広い。その広大さを満たしてしまいそうな、すじ雲をまとう巨大な綿雲。地平を暗くするほど厚く高く、ふわふわの側面は天蓋で生クリームでも泡立てているように滑らかにまとまり、ひとつの塊が星でも巡らすように進む。天頂に見える爽やかな秋晴れの青には、夏の過ぎゆく予感がする。川は尚穏やかなまま、横一文字の岸の眼下で空を白く反映していた。印象深い天地の配色、層が織り成すコントラスト。撮らずにおれない光景だった。
 16時40分、29km地点。左岸に注ぐ支流を過ぎ、草木の途切れた小さな岸に到着、”GOOD CAMP”、”MANDANNA CREEK”。3時間10分、時速9.2km。累計257.5kmだ。先客は無い。坂を上がったすぐの所に石の組まれた焚き火の跡、丸太の組まれた長い腰掛け、木と木の間に組まれたテーブル。これは良い。地面は乾いて木屑が多く、どこを歩いても柔らかい。木々の合間で屋根代わりになり、それでも陽が射し寒さもない。完走前夜の最後のキャンプに相応しい、恵まれた野営地だった。時間も充分、ゆっくり休めそうだ。
 荷物を下ろしてカヌーを引き上げ、荷物を坂の上へと運ぶ。観察も兼ね、薪を探してあちらへこちらへ。大木の丸太が転がっていたので少し切り出し薪にした。集めたところで陽のあるうちにとカメラを持って周囲を散策。東の森を抜けると川沿い。支流にLP、水音を立てる。目にも足にも柔らかい地面。苔の緑、木の葉の黄色、木の実の赤、銀色の露。小道はブラウン、立木は濃緑。
 今度は南の森を抜けると、山へと続く斜面に広がる焼け野原。焦げたり折れたり枯れたりした木が、倒れ重なるか、立ち尽くしている。だがそこかしこで幼木が伸び、地面は緑に覆われていた。生命に満ちている。どれだけ焼いても根絶やしになることはないのだろう。きのこがあったので木の棒で採取。戻るともう焚き火は付けられていて、湯が沸かされていた。気まぐれに焚き火に放ってきのこ焼き。大火を上げ、香りも分からない。
 18時、焚き火から5歩、テントを張る。少し近いが木々の狭間の落ち着く柔土。マットを敷き、寝袋を投げ、荷物を入れる。その後は調理、食事は豪華に、荷物は軽く。最後の玉葱みじん切り、油を引いたフライパンに入れ、蓋をし焚き火に直に置く。ようやく出番のキャベツはざく切り、鍋に押し込み水を足し蓋。瑞々しいままよくぞここまで来たものだ。閉まらぬ蓋に重石を載せて、こちらも直に焚き火に据える。炒めた玉葱、蒸し焼きキャベツを器に移し、手付かずだった大量の肉、牛の挽肉1.5kgを収まるだけフライパンに詰め塩と胡椒、蓋をし再び直に焚き火に。じゅうじゅうじりじりくつくつ数分、蓋を外してひっくり返すと見事な焼き色、台所でもこうはならない。良い火に充分焼けたところで肉汁を野菜に、肉の塊を好きなだけ器に。父は湯で用意した米とビールで。自分はひたすら肉と野菜を。空いたフライパンに再度挽肉を詰めて味付け、蓋をし焚き火の直火に据える。
 19時、川の流れを横目に見ながら、焚き火の熱に温まりながら、じゅうじゅうじりじりくつくつという調理の音を聞きながら、手を合わせてここまでの無事に、また明日の到着に思いを馳せる。さておき今はこの良い香りに箸を進めた。とてつもない味がする。只のキャベツをこれほどありがたく思うことはこの先あるだろうか。
 ふとかつて食べた只のトマトを思い出す。クロアチアで雪の山道を歩き続けて疲れ果てた末に、乗り込んだ温かいバスで唯一手元に残っていた食料、あの只のトマトを。どこで手に入れたかも忘れてしまった只のトマトが、その時その経験の中で宝玉、仙薬のごとき価値をもっていた。
 何の巡り合わせでか得た糧。どこかで生まれて刻まれた牛の身体、どこぞへ運ばれ火に焼かれたその肉片は、その実、わたしの血肉に変わるべくその身を捧げたのだと臓腑が聴き届ける。再び焼き上がったその肉、捧げられた生命を器に。三度フライパンに、血肉の供物を詰め浄火の忌み火に捧げ焼く。送り火であり、火葬でもあり、味わうべき音と香りと恵みであった。
 自分独りで1.2kgほど食べた。川を遡る鴨の群れがあった。
 20時、鍋や食器を拭き上げて片付け。バレルやクーラーを移動して岸のカヌー下に。西へと流れる夕焼けの川が素晴らしかった。歯を磨き、顔や頭を流れに洗い、坂を上がって焚き火に乾かす。
 21時、着替え。焚き火の前に腰掛けて、したいことのひとつの爪切り。済むと空気が冷えてくる。いつもの柔軟がいつも以上にありがたい。そのまま火守りをした。日が沈んだ頃だろうか。
 22時、まだ夕焼け後のような薄明るさだった。テントでこの日の短い記録を付ける。空だけ青白さを残し、地面や木々は黒いシルエットに。明日いよいよ300kmを漕ぎ終える。夕べの糧が眠る身体に滋養を注いだ。