8月31日(水) ユーコン川7日目
 8時、がさごそがさごそぴーちくぱーちく。仰向けのまま、テントの入り口を開く。見上げる樹上で声がする。何かが落ちてくる。モーニングコールも空襲も頼んでいない。しばらく聞きながら止むのを待っていたが、なかなか止まない。立ち上がって身体を見せれば逃げていく。朝のお勤めのリスたちであった。落ちてきたのは木の枝か松笠か、テントに当たったものもいくつか。
 10時、焚き付けをして湯を沸かす。岸辺に下りて川の流れに顔を洗い、バレルやクーラーを運び上げる。柔軟をしてテント干し。東の木々の間から陽光が射し、マットも寝袋も充分乾く。
 11時、珈琲を淹れ、朝食の支度。食べ過ぎるほどが丁度良い。林檎、パンを4つに塩キャラメルナッツバター。焚き火に載せたフライパンで表を裏をとトーストすると、あっという間に焼き目が付いて、焦げ目に変わって、湯気立つ朝食。父は麺を茹でていた。
 12時、何艘かずつ、計5艘のカヌーが通った。食事を済ませ、陽射しに乾いたテントや寝具を片付けていると、なんと背後の森の方からあの道すがら言葉を交わしたジャーマンのジェントルが!「おやこれは先日の、どうもこんにちは」「また会いましたね、いつも追い越し追い越されしていたようです」「そうでしたか、私たちは一晩過ごして今出発の支度中です。今回はどちらから?」「テスリン湖からです、3日掛かって。お二人は?」「3日間!私たちはホワイトホースから、全7泊で」「ラバージュ湖を越えたのですか?!」「ええ本当に大変でした」隣に奥様が。「何か大きな動物は見ましたか?」「その湖の半ばで黒熊を1頭だけ、多くないですね」「本当に、これほど動物を見かけないのは初めてです」「なるほどやはり」「私たちは休憩に立ち寄りました、どうぞこの後も素敵な旅を」「ええお互いに、それではまた」「SAYONARA!」え!やはり日本語。白い髪の奥様は裸足で森を。旦那さんは黒い帽子を。東の支流沿いを戻ってゆかれた。なるほどこのお二人、道中見かけるのはこれで4度目だったようだ。互いの見聞で互いを潤す。別の旅、別の経験まで分け与えられたように感じる。
 13時、カヌーを浮かべ、荷物の積み込みを終えようというところに、別のグループ3艘が近づいて来た。どうやら男性一人がガイドで、他の2艘に指示を出している。着岸するようだ。「やあどうも、3艘なんだが駐まらせてもらってもいいかな」「どうぞもちろん、もう10分か15分で出発するので、岸の間口を少し占めていますが」混じり気の無い英語だ。カナディアンとスイスの2名ずつ、4名のチームであった。
 岸辺を分け合い、火床を引き継ぐ。さっきと似たような話題の遣り取り、この後彼らは南の焼け野をハイキングして、丘に上がるのだという。そんな旅程もあるのだなと思う。もう一人のカナディアン、銀色髪の中年女性、「何か動物は見かけなかった?」「かくかくしかじかで」スイス女性「えええ!ねえ、彼ら黒熊を見かけたって!」「運が良かったのね」「あの荒波に値するならばですが」彼女らもハクトウワシがいいところだという。
 その他出身は、天気はどうだった、地図はどれを使っている、分かりやすいか使いやすいか。そんな互いの旅の身の上を共有する間に、ガイドが焚き火を付け終えてもくもく立ち昇る豪快な煙、食事の支度か。互いの健闘を祈る。到着地点でまた会うだろう。
 ちなみに手元の川地図はMIKE ROURKE著の”YUKON RIVER – MARSH LAKE TO CARMACKS”で、初版が1983年、改訂が今年2022年、最新のもののようだ。著者は35年間、夏季3万kmに渡って北部近隣方々の水系をカヤック、カヌー、川船で航行してきたという。川関連の出版業務に追われていない期間は牛類ヤクの牧場を営んでいるそうだ。色んな人生があり、自分の人生に影響しているのだと感心する。特に有用な道具のひとつであるから。
 さて13時15分。再開や出会いに背を押されての、最終行程出発いよいよ。ラストラン、42.5kmの道のり。快晴である。天気にも恵まれ背を押される。縄を解いて岸に引きつけ、後席に続いて乗り込んだ。ふわりと揺れるカヌーの上で、縄を束ねて舳先にまとめ、いざ漕ぎ出そうとパドルを構えてようやく気づく。全く力が入らない。

 意志が全く、腕に通わなかった。
 パドルを持つ手の実感すらも霞んでいる。重くも軽くも感じない。どうしたことか、何が起きたのか。これまで経験したことのないほどの虚脱感。自分の胴に、まるで綿すら満足に詰められなかった人形の腕でもぶら下がっているようだ。
 この日到着するものと知って、「進まなくてはならぬ」という意志がついえた。それを目指して繰り返してきた何千何万のストロークが、この後要らなくなる。早くも察して、漕ぎ着けようという意志を、もう腕は反映できない。
 いや、もう到着すら、自ら遂げる意志がなかった。ない意志を、腕が身体が、どう反映するというのか。湧き上がらない活力と、それをそのまま無感動に表す腕。到着前に燃え尽きてしまっている。意志が消え、心を抜かれた人形のように、刺激に応じることが出来なかった。
 それで初めて体得する真理、身体を動かすのは心。心に光を注ぐのは意志。それこそが生命力そのもの。気力、活力、精神力。意識が通っていないとき、身体には何のエネルギーも無い。呼吸も脳波も意識の産物。物質次元に、行為も変化も促す力は存在しない。只意図に応じ動機に応じて、心を焚き付け行為を促す。

 景色は吸い込まれそうな青。空も川もその色をして、静かに前へと舟を引き込む。
 死んだ枯れ木が無数に列び、岸の岩場を針山にする。
 意識が薄弱として、今、自身は存在しているのか。
 ぼうっとして、三途の此岸と彼岸の狭間を、どちらへともなく漂うごとく。
 その最後の砦は、堪え難いほどの喉の痛み。

 スーザンからもらったのど飴、否、みみ飴をライフジャケットの前ポケットに詰め込んでいた。5つを立て続けに喉に溶かした。レモン、オレンジ、グレープフルーツ。シトラスミックス。焼け付くような喉を癒やす。
「この為だったのか」と不思議な巡り合わせが、この世に偶然の無いことを教える。みみ飴だけど。ユーコン川への出発前夜、彼女への礼に「沢山食料を買い込んだが、この飴が何よりの元気の源になりそうだ」とメールを送っていた。誰かの為に用意する菓子には、何よりの「栄養」が宿るのだ。あの夜捻って飲み干したリポビタンDも。
 無事に遂げよう。心を燃やせば身体は動く。己が定めた限界も超えて。

13時30分。左岸に寄って、木陰伝いに。
13時40分。右岸に岩山、もうひとつ岩、ボートが2艘、赤い車。
14時10分。中洲を過ぎた。砂岸に立つ電信柱、3本揃いで横並び。
14時20分。崖の間際で途切れているのか、虚空で終わっているかのよう。
14時30分。通り過ぎれば何のことはない、崖下に向かって斜めに続く。
14時40分。右への折れ目に砂の州が。
14時50分。押し戻されそうな向かい風。
15時00分。微風になったが、地図が破れた。
15時20分。右に曲がり。
15時40分。左に曲がる。
16時00分。”GOOD CAMP”。
       駐まるつもりが流れに負けて休憩すらも諦める。
16時10分。鷲が獲物を川に落とした。
16時20分。砂利の洲を見て、舳先を乗り上げ。
       休むでもなく、食べるでもなく。
16時30分。西の水辺の砂を漁ると砂金がきらきら。
       採ったところで何になるのか。
16時40分。疲れたままで再度出発。
16時50分。喉が痛む。ポケットは空。
17時00分。岩の日陰に渦巻く水面。
17時10分。日向に戻る。顔焦がす光。
17時20分。中洲にLP。広い川幅。
17時30分。・・・
17時40分。・・・
17時50分。・・・
18時00分。川越す電線。残り5km。
18時10分。中洲の左へ進路を誤る。
18時20分。腕を酷使し右岸に寄せる。
18時30分。その甲斐もなく、まだ長い岸。
18時40分。澱み、炭鉱、車両、騒音。
18時50分。川辺に看板、並ぶテント。
 これで到着、今日の野営地カーマックス。
 なんだ、着いたのか。着いたのかもしれない。岸に被さる出島になったベニヤの足場に駐まってみる。
 到着の感慨は湧かない。疲れている。やるべきことも済ませなくてはならない。喜びに割く活力は無い。足場の縁に据えられた横木の隙間に縄を通して、座ったままでごくごく短くカヌーを舫う。
 足場の端から岸の上まで木製のスロープと手すり、ふわふわと浮き上がりそうな跳ね返り、ふらふらとくずおれそうな足取りで登る。立ち並ぶテント、バレルやクーラー、装備のコンテナ、並ぶカヌー。こんなに多く川の旅人がいたのかと驚く。
 それもさておき、まず目が追うのは焚き火釜、テーブル腰掛け、広い平面、木々の合間。
 奥には北から食堂、駐車場。自販機、洗い場。小さな小屋に洗濯乾燥、シャワーや手洗い、巨大なガス缶、ごみ捨ての樽。宿泊用の丸太小屋、岸辺の私有の丸太の家。
 森を抜けると道路が通り、車の往来。キャンピングカーがいくつも駐まっているのだった。空いた南のテーブル周囲に野営を決めて、ライフジャケットとパドルを置いた。スロープを下りいつもの荷運び。最後の荷運び。テーブル周囲に荷物を並べる。動けるうちに、カヌーを岸の上まで運ぶ。前後を持って土肌の岸を斜めに登り、表のままで地面に置いた。
 薪探しを兼ね周囲の観察。北の売店、大看板に”COLD BEER”、全く以てセンセーショナルな。しかし要らない。もっと稀少なものを得ている。幾多も並ぶ、アイスやジュースやソフトクリーム。ピザやフライやハッピーセット。そんなものは今、何も要らない。もっと得がたいものを得ていた。
 苦心の旅路、一貫して呑まない。味わいたいのは意識と景色の相互作用。
 そしていまもっともっと酔いしれたいのは達成感と、無事の安息。かつての憧れ、その成就。寄せる均衡、凪ぐ不均衡。その喜びと安らぎに心を浸したい。
 重要なのは官能歓楽などという、揺り戻してはまた不均衡に至る虚しい耽溺ではない。しらふでつぶさに味わい尽くす、「存在」の美の、言語を絶する驚異と静寂。
 店の裏手に手洗い場を見つけた。何ということだろう!「水道」が存在している!イタリアナポリのポンペイで、卑弥呼の時より200年前、古の都市の水道、洗い場を見つけたときより驚いている。蛇口の隣に石鹸液付き。使っていいのか?よろしいのか?なぜ使っていいのだろうか?!
 袖を引き寄せ内肘に絞ると、一層濃く焼けた手の甲が際立つ。洗面台に手を差し伸ばし、蛇口をひねると水が馳せ出る。好きなだけ出る。手を濡らして止め、何日振りかの石鹸液を左手に取る。双手に拝むように行き渡らせる。
 喉の痛みが去っている間、刺さるように痛かったのは指先。書いたり撮ったり弾いたり作ったり、普段指にはよく気をつける。過去にこれほど手が荒れたことは、武道を除いて思い当たらない。
 祈る両手に立つ白い泡、黒く滲んでしたたり落ちた。指の先、肌に染み着き運ばれた、土くれ、砂粒、道々の粒子。
 パドル、舟べり、縄、荷物。鋸、枯れ枝、焚き木、消し炭。ナイフ、食器、テーブル、腰掛け。打ち寄せる波、吹きつける雨、ぬかるむ砂の洲、湿った地面、濡れた生木。
 土地土地で触れ川に洗い、紙に拭って焚き火に乾かし、今洗い流して再び土地土地を循環するのだろう。ここまでの苦労が僅かに水に流れてゆくようだった。
 ああなんといい香りだろうか。なんと心地良いのだろうか。良い香りの手、洗いたての手。只手を石鹸で、流水で、洗えることが、只それだけのことが、これほど豊かでありがたいことだったのだと、知らなかった。手を洗うことにありがたさを結びつける発想が、思考の枠組みが存在しなかった。文明の内へ帰って来たのだ。悪くない、享受する。
 19時半。拾った薪を火釜に放って、どこそこにあれやこれやがあったと伝え、水道という好き放題に水が出てくるもので、濾過も不要の水汲みをして、鍋に移して湯沸かしをする。付けた焚き火に網台を載せ、鍋を火に掛け寝床の用意。
 平地を探してテントを張って、寝具を広げて荷物を収める。木々の下だが、自販機が近いな。
 隣の組は大所帯。白人老若10人前後いたろうか。若者4~5名、水着で川辺の足場に立って、まさかと思えば跳び込んだ。もしや例のサウナ屋か?皆一度切りで、岸に上がって火に当たっていた。その後は皆で火釜を囲み、テーブルを出し、食事を用意し飲み物を手に、ガイドか主催か企画の者かが乾杯前のひと言演説。彼らも無事に旅を終えたのだろう。
 こちらも疲れをだましだまし、二人つましく夕食の支度。沸いた湯をアルファ米に注いでおく。少量ずつのレトルトパウチの角煮やカレーやハンバーグ、余った湯に入れ温める。最後の卵と未開封のハム、焚き火に掛けたフライパンでこんがり。まな板、ナイフ、数枚剥がしたキャベツをざく切り、只の蒸し焼き。林檎を切る。パンも減らせるようにひとつ。
 21時。ユーコン川の旅の終わり。最後の夜の夕食を。器に御飯、ハムと玉子と蒸し焼きキャベツ、ひとくちずつの角煮とカレーとハンバーグ。父は最後のバドワイザー。自分はあとで珈琲を淹れる。切った林檎はご自由に。
 旅の終わりのあり合わせ、よくぞここまで食べ繋ぎ、運び繋げたものだと思う。たった7日がせいぜいならば、昔の人は、冬の間は、原始の時代はどうして暮らしていたのだろうか。やはり近所の慣れた土地なら容易いことであったのだろうか。スーパーも無し、トラックも無し、冷蔵庫無しで、自分は7日でも食い繋げるのか。
 便利な時代で、出来ずにいられることが増える。
 川の旅、カヌー造り、火起こし焚き火、漁狩猟。
 場所を覚え、草木を覚え、獣を覚え、星を覚え。
 道具を作り、家を作り、畑を作り、牧場を作り。
 便利なお陰で、出来ることをより深められる代償なのか。わざわざ1万km先から7日8日の川下りのため、飛んで行ける時代なんて自分の世代が最前線だ。文明の末に乗り継いだのが、何の因果か1万年の歴史を宿す人類初の乗り物カヌー。
 水に浮かべ、荷物を載せて、櫂で進んで、流れに任せて。
 薪を拾い火を焚いて、暖を取り雨をしのぎ。人類が経た暮らしの歴史を追体験する。
 そうするだけで満ち足りていた、他に望める表現の無かった時代を肌で感じる、身を以て知る。
 行き着く問い。希求を止めて、不均衡の根を断ち折るには?
 便利な時代で、出来うることが多すぎる、願えることが多すぎる。職業選択ひとつをとっても、こんなに多様な可能性を市民の多くがもった時代は、父の世代が最初の世代だ。
 島に生まれて漁に暮らして兵に出されて終戦を迎えた祖父の時代に、どれだけしたいことが思い浮かんだか。そのうちどれだけ当てがあったか。
 予期に仮説に選択肢に、なびくことなく与えられたハッピーセットに満足しているべきだろうか。
 予期に惑い仮説に惑い、漫然と過ぎる日常に不均衡が募るのは、多すぎる、願いを惑わす選択肢に、注力・傾注・専心専念が浮つくからか。多すぎる、実行されない選択肢なら、無いに等しい、無い方が良い。
 ・・・おお。アタマの迷路に捕らわれていた。思考が一挙に焦点をすり替えて注意を独占してしまう。考えても答えはない。縁のある旅、縁のある経験を、只「是」として受け取り味わおう。
 食器を拭いて物を片付け、もう一度湯を沸かし始める。綺麗にしたフライパンに食後のデザートレーズンスコーン。遠火でゆっくり温め始める。沸くまでの間、改めて地図を眺める。
 本日走行42.5km、5時間30分、時速約7.7km。走行累計、300km。
 到着の感慨は湧かない。疲れている。やるべきことを済ませてもまだ、喜びに割く活力がない。今は只々、泥のように眠らなければならない。それを身体がもう何日も何時間も愁訴していた。
 でも、眠る前でも、この日飲みたい珈琲があった。渡加直前まで開催していた、かつてのカナダの写真の展示で、数年振りに再開した人。その方からの差し入れの品。味わう間も無く出発したので、荷物に含めて携えていた。
 時間を割いて、何年越しかの自分の展示を、心傾け観て下さった。それでかつての旅も報われ、今この旅路を行くことができる。励ましの贈り物まで。ゆっくりと心傾け場を整えて、味わう時間を取りたいもの。大切な縁。
 この旅も、無事持ち帰ればまた会えるだろう。どんな事業もひとえにコミュニケーションの為、魂の交流の為。互いに意欲や活力を、各々の表現で与えたり与えられたりしている。
 暗くなる夜、川の静けさ、焚き火の火、湯気立つ珈琲。ゆっくり味わい、ユーコン川沿い最後の食事に。無事の旅路の活力を得た。
 22時半。荷物まとめや片付けをして、歯も磨き終え身体を拭いて、焚き火を見ながら柔軟をした。怪我も故障もせずに済んだ。労い、ゆっくり休ませたい。
 辺りが暗くなるとひときわ自販機の明かりが煌々とする。テントを川寄りの場所に移動。暗ければ良いと暗いところを選んだものだから、平らかどうか見ていなかった。斜めの配置、良くなかった。テントに入って、マットと寝袋の滑る感覚に後悔するが、でももういいや斜めでも。
 23時。地図に記録を書き込んでおく。それと、携えれば良かったと思ったもの。長靴、長靴下、パドル用グローブ、ハンドクリーム、リップクリーム、サングラス、日焼け止め、虫除けスプレー、人数分の地図、方位磁石、時計、扱いやすい双眼鏡、装備用コンテナ、ガス缶大2つ、大鍋かフライパン大、マグカップ、焚き付け材。
 5日振りに家族に連絡、取り急ぎ無事の到着、息災の報せ。ラバージュ湖上流、あの旧村以来だった。
 それらが済めばあとは寝るだけ。珈琲の御礼を書き留めておく。
 24時。
 もう漕がなくていいのだ。もう漕がなくていいのだ。
 自ら言い聞かせないでは、自然に安堵できなかった。今朝あれほど力が抜けてしまっていたのに、少し焚き付け気負うと再び「ああまた明日が、ああまた明日が」と不要な取り越し苦労に気が張る。安堵も感じる余力が無いのか。
 人生の仕舞いもそうなのだと思う。「ああまた明日が、ああまた明日が」と飽いて苦しくて迎えたくない明日をもし、充分に生きた、もう生きなくていいのだ、生きなくていいのだと、心底思えるならばどれほど安らかだろう。絶対に一度で生き切りたい。
 テントから少し顔を出す。南の空に輝く星。川は変わらず静かに流れる。