9月 8日(木) アラスカ3日目
 6時、起きて柔軟をし、昨日付けていなかった日記を済ませて二度寝。アラスカの山奥で二度寝。7時、寝具やテントを片付ける。荷づくりを済ませ、食料品の回収もして水の補給に近くの水道へ。慣れない作りで、まるで井戸の組み上げをするごとく、小型のレバーを起こして数度ポンプすると後は自然に流れ続ける。
 8時。まだ早いのだが坂の上のバス停へ行く。曇り空は相変わらずだが 雲が厚く昨日よりも薄暗い。山際にまで垂れ込めていて景色を僅かに霞ませている。バスが来るまで車道を行き来して山の景色を撮った。バス停には餌を求めて大きなカササギだろう、羽先と尾の青い、腹の白い黒鳥が飛んだり止まったり歩いたりしていた。
 8時半、緑のバスが1台停まる。西行き、現在訪れることが出来る野営地の内、最も公園奥にある”Igloo Creek”へ向かった。
 旅程を計画していた頃は、ただ地図上で緑に塗られた土地としてしか知らないで、そこに想像の風景を当てはめる。山奥で、それこそ緑一色の木々の合間にあるのだろうと思い浮かべた。そしてことごとく、実際の経験に塗り替えられる。自分の予期など全く当てにならないことがよく分かる。これはどんな旅でもそう。さっきまで見ていた夢も目覚めてすぐに消えゆくような「壁の無い穴」。どろりと熱い現実の経験を、流し込むのはやはり実足。
 バス運転手の解説、おしゃべりのような心地良いそれを聴きながらバスが絶景の中を進んで行く。ブロンド不惑といった感じの女性運転手で、澄んだ声音が麗しい。
 このデナリ国立公園は現在、日本の四国が収まるほどの敷地面積を有する。北米最高峰の「デナリ山」、標高6194mは現在も少しずつ高まっているらしい。世界最高の山との謂われもある。海抜標高ではなく麓の平地から測る「比高」では、チベット高原からのエベレスト山頂は3700m、対してデナリは麓からその山ひとつの立ち上がりが5600m。見上げる高さは世界一だ。因みに富士山は南で田子の浦に接しているため標高と同じ3776m。海底から測るならハワイのマウナケアが1万と203m、地球の中心から最も離れている地点ならばエクアドル、チンボラソ火山、遠心力で楕円に膨らむ赤道の上。どれも恣意的な基準次第。地球儀大ならどれも紙一重ないそうである。気にしないことか。
 登山には14~20日を要するとのこと。世界で初めて単独の登頂を果たしたのは日本人の冒険家、植村直己の1970年。それが同時に世界初の五大陸最高峰登頂となる。1984年、冬季世界初単独登頂も果たしたが、彼は直後に消息を絶った。国民栄誉賞受賞。
 以前は「マッキンリー」の名で呼ばれていた。これは1897年、オハイオ州から金の探索に訪れていた採鉱者が、当時米大統領候補者となった同州出身ウィリアム・マッキンリーの名を載せる提案をしたことに因る。彼が第25代大統領となってから2期目の1901年に暗殺されるまで、特段のゆかりはなく一度も訪れることはなかったそうだ。(当時副大統領セオドア・ローズベルトが26代大統領となる。)記録の残る初登頂は1913年で、この命名よりも後。アラスカ州は1975年から「デナリ」への改称を連邦政府に働きかけてきたが、議会でオハイオ州の反対が続いた。1980年、州法に基づきデナリ国立公園を設置、州の地名局は同時に山の名称も「デナリ」に改称したため、二つの呼び名が並存。2015年、オバマ大統領がアラスカ州で環境保全会議を開くのに合わせて「デナリ」に正式に改称。先住民コユコン・アサバスカンの言葉では「最も高い」「偉大なるもの」を意味する。実は他にも47近い別名があるそうだ。
 インドの「ボンベイ」は「ムンバイ」に、オーストラリアの「エアーズロック」もアボリジニの呼び名の「ウルル」に、日本国内の市町村合併では旧国名が入ったり、2022年今年、インドネシアの首都が人口過密、渋滞等の弊害を緩和するため「ジャカルタ」から「ヌサンタラ」に移転・改名が決定したり。言は世につれ世は言につれ、意外にも身近に改称は起こるようだ。今後「レーニア山」が「タコマ山」になるかもしれない。そしたら例の飲み物も「マウントタコマ」だ。これも人々の都合次第か、疎通の利便か。
 さてバスの外、言わずもがな景色は絶景、更に色濃い。曇りがちでもこの美しさ、昨日と比べて全体的にやや青みがかって見えた。ぶれると分かっておりながら、それでも写真を撮りまくる。窓を開け、冷たい風を浴びながら。金色の野原の先に真っ赤な丘続く景色、この世の終わりかと思うくらいに赤一色に染まる大地丘陵、絵の具を上から垂らしたような赤、黄、緑が織り混ざる山肌。赤い低木にはブルーベリーの木も含まれており、食べる分なら実を採ってもいいそうだ。まるで夢の中の世界。どこまでも夢見心地に走っていった。
 9時半、”Teklanika Rest Stop”でバスが止まる。15分休憩。”Teklanika River”を望む川岸の展望台があり、ベンチや看板がある。大きな手洗いの棟が4つも並んでいる。こんな山奥まで、実によく整備され、管理保護されているのだった。焚き火の仕方にまで声が掛かるぐらいだ、まさしく知性による事業だろう。そもそも”国立公園”の設立や必要性、その概念を生んだのがこの国であり、1872年、日本がまだ明治維新の頃には世界初の国立公園がイエローストーンに設立された。先住民や入植者それぞれの利害に関して紆余曲折の歴史を経験したことが窺える。毎夏訪れる人々にバス運行を提供し山道の開拓は1本に留めつつ、自家用車の走行を減らして交通を円滑にすることで、来訪者にとっては生涯の記憶となるような経験ーーー野生の狼やムース、その他の小動物をも間近に見られること、僅か20m先でグリズリーベアがその子グマを連れてブルーベリーを食んでいる息を呑むような場面ーーーを代々に渡って与える事業となっている。
 休憩が終わるとバスの出発後すぐ、登りの山道に止まって運転手が山の高いところを指した。黄色の美しい低木が谷間の溝を埋めているが、それに混じって雪でも残っているかのように白い部分が微かに見える。「ドールシープ」と呼ばれる北米北西部の固有種らしい。ロッキー山脈で見られるオオツノヒツジによく似て、雌雄とも角を持ち、特に雄にはこめかみから大きく耳を取り巻くように一回りする見事な角が見られる。狼や熊から身を守る為に険しい崖の上に生息しているそうだ。
 この野生動物の保護を目的として設立されたのがデナリ国立公園の創始である。1907年からの滞在中、地域の固有種であるドールシープの研究に従事していたチャールズ・シェルドンが、この土地で行われていた大規模な商業狩猟の影響を危惧し、議会に働きかけた。禁猟地を設ける請願は、1917年「マッキンリー国立公園」として成就したが、当時はその山頂も含まれない、ごく一部の範囲であったという。1976年に生物圏保護区に指定、1978年末に米大統領ジミー・カーターにより「デナリ国定公園」も布告、1980年末に数週の任期を残すばかりの彼によって「デナリ国立公園」として統合・設立された。敷地面積は3倍に拡大され、分水嶺と野生動物の生息域全体を含む自然保護区も園内に設置された。
 10時、乗客の活気も冷めやらぬ中、川に架かる橋の手前でバスを降りる。園入り口からおよそ50kmの場所。降りた我々に手を振る乗客。歩きでこんな大荷物は珍しいだろう。川沿いに砂利道を下ってすぐ、”Igloo Creek Campground”に到着した。7箇所の野営の区画と食料の保管棚、屋根とテーブルベンチの炊事場、ごみ箱リサイクル箱と手洗い。火釜は無し、焚き火は不可、水を持ち込む必要がある小規模の野営場だ。
 森の茂みに紛れていくつかテントが張られている。空いた区画を確認してテントの設置場所を決めた。宿泊者証を沿道の柱に。木々の下、平らな地面、柔らかい下草や落ち葉や木片を下地にテントを張った。この旅最後の野営泊だ。様々な色と形の植物で彩られた森、木々の切れ目に覗く金色の山、細々とした川のせせらぎ、地面を飾る落ちたばかりの黄色の木の葉は風を受けてまだ増えていく。静かで良い。訪れて初めて知る。
 10時半、早くも今夜の寝床の支度を済ませて荷物を仕舞い、屋根の下のテーブルに着いて朝食を摂った。苺、ブルーベリーにラズベリー、ブラックベリーも。それとバナナのヨーグルト。冷えるのでガスで湯沸かし、温かいものも多めに摂る。珈琲はカップで、ジンジャーレモンティーはタンブラーに、小鍋で即席味噌汁を。
 11時、食事の片付けをしているうちに雨が降り出した。食料や調理器具等をまとめて、鉄製の保管棚にしまう。正面に左右両開きの扉が付いた、腰の高さほどの棚がいくつか並んでいた。ハンドル部分は熊が開けられないように、下から手を差し込んで内部の金具を押し上げながら開閉する仕組みだ。野生動物の多い地域ではごみ箱なども同じ仕組みになっている。棚の横に、黄色い小さな鉄製の箱も備え付けられていた。中にはガス缶がいくつか。使い切らなかったものを共有する為の保管庫らしい。
 11時半。テント内で雨風をしのぐ。これまでの長い旅路と寒さに疲れていた。きっと川下り最後の日と同じだ。天気には休めと言われていると受け取る。散策は諦めて、テントにナッツとさっきのレモンティーを持ち込み、久しぶりに音楽でも聴きながら過ごすことにした。イヤフォンを使うのも久しぶりだ。出発から18日。半月以上も音楽を聴かずに過ごしたのはいつ以来だろう。20年では済むまい。それだけ長い間、注意を逸らすか意識を注ぐかしていなくては、半月も過ごせなかったのだろうか。静けさに染み入るPachelbel。それだけを繰り返し繰り返し、3時間。昼食代わりの御茶とナッツとドライフルーツ。1.5kgも有ったナッツは残り50gほど。ひとまとめだと自分でも驚くような量だったが、丁度野営の日を乗り切れそうだ。調理も要らず軽くて栄養もあるので重宝した。音楽もひとつの糧か。気力を得て外に出る。
 14時半過ぎ、雲間から陽の射すのが見えた。雨は小止みになっている。ブーツ、ダウン、レインウェアを身に着けて、カメラと傘を持って15時、独りハイキングへ。写真を撮りに山道を散策に出た。父は長いこと休んでいた。昨夜手を洗いに出たが腰をいわして立てなくなり、匍匐前進でテントに戻ったのだという。
 橋を渡るとすぐ、霧雨に続き再び風に乗った水滴が吹きつける。1500~2000mほどの高さの山々を左右に見上げながら、その山間の道を歩いた。こんな霧雨の中でも景色は素晴らしく、道の両端は左の山に向かって上りの斜面、右の谷川に向かっては下りの斜面、その全てが隙間無く植物で埋め尽くされていた。道端すぐに赤い低木が密集し、その奥に黄色の広葉樹が列び、川の向こうの山の中腹は濃い常緑の針葉樹林、斜面を登っていくほどにその高木はまばらになって、代わってあの、3色絵の具を上から垂らしたように赤に黄色に薄緑に、山肌を塗り尽くす見事な色の織り交ぜが全ての山に。
「山道奥でKAYOLIが出たようです。お気を付けて。」下って来た管理職員の車両から声が掛かる。「KAYOLIですか、分かりましたどうも。」KAYOLIは危険だ。カヨリはカヨーリ、つまりコヨーテという訳だ。早い話がオオカミだ。独り歩きなんてとんでもねえ。ぶるぶるだ。
 ぶるぶるいわしながらも、地図も見ないで只ひたすら道に沿って進む。修行の僧侶か御遍路か、霧の中風の中、見渡す限り人の居ない濡れた山道を行く、五里霧中。とはいえ緑のバスが自分を追い越していったり、向かいから走って来たりはしていた。その行き来の間隔を1台が往復しているものと考えると、次のバスの停車場まで歩き、帰りはそこからバスにでも乗って戻れば良かろうなどと楽観した。手元の時刻表ではバスで45分も進んだ先だったのだが、どうしてそんなに楽観できたか。
 川に沿って坂道を登っていく。水辺の景色、山の景色を黄色の木の葉が埋めている。曇りの日の弱い光を受けて、霧掛かった空気まで金やセピアに染めている。ふと葉の落ち尽くした枯れ木が見えた。そばには黄色の葉が僅かに残った木も並ぶ。色にばかり気を取られていたらしい。これから半年間の長い冬に備えて、早くも眠りにつくといったところか。落としてしまう葉を鮮やかにして、残る幹枝は寒々しくして、不思議な生き物だと思う。自分で作れと言われても、決して生み出せないその造形と機能と魅力の完全さ。それが無数に土地を埋めている不思議さ。
 少し高い山が見えてきて、急峻な頂上周辺に草木の無い岩場が見えた。下った裾野や谷間にはやはり見事な赤・黄・緑の三原色がひしめいている。光を受けて育つように、こんなに映える光の三原色をしているのか。小雨の山道をマウンテンバイクの男女が追い越していった。少し遅れてクリーム色の観光バスが過ぎていく。水に濡れた山道は白く光って、谷に近い山の斜面を右へ左へ曲がりながら長く伸び、峰の向こうに隠れて消える。
 傘を差しつつ撮り歩きながら登ること2時間弱。180枚。歩みの遅さを現実的に受け止めると、これ以上は楽観も続かない。帰ると決めて、写真は撮らずに来た山道を下って戻ると1時間弱。きっと5km先にも到達していなかったのだろう。バス停までは15km以上。明日の列車の出発前に、シャトルバスで行けるかどうかを確認しておいた。
 17時半、野営地に戻る。食料等を取り出して夕食の支度をする。ガス缶にストーブ、バンクーバーで買い足したBen’s Original、パウチのブラウンライスの中身をメスティンに出し、水を少量足して温め。フライパンで再びソーセージと目玉焼き3つ。空にしたベリーの器に袋のサラダ、チーズとハムとドレッシング。スープ代わりに袋麺で熱を摂る。温まったブラウンライスを皿に分け、焼いたソーセージと目玉焼きを載せ18時、つましい夕食。雨風が冷たかった。休む日だ。アラスカで休日。ローマも良いがアラスカも良い。
 JETBOILのコッヘルで、食後の珈琲用に湯を沸かしていると、同じ屋根の下、小型のJETBOILのコッヘルで同じく煮炊きをする女性がいた。環境に関する研究のためにこの国立公園に住んでいて、今日は休日、山にキャンプをしに来たという。山奥暮らしの穏やかさを思い出す。余暇といえば大体はハイキング。冬は?ハイキング。あとは習字か蜜柑の皮むき。ずっと正月みたいなものだ。
 さて18時半、珈琲でもうひと口の熱を摂る。この日ももらい物の珈琲、良い香り、カップにドリッパーを掛けて湯を注ぎ、少し蒸らして注ぎ足す。豆はブラジル、粉は普通の倍量で、濃いめ強め。フライパンで最後のスコーンを温める。長旅おつとめ御苦労の品。残っているウエハースも少々。美味しい珈琲だった。好みを察せられている味。
 19時。片付けや保管を済ませて早めの柔軟。その後こちらも長旅おつとめ御苦労のブーツを簡単に拭き掃除。早く帰って磨きたい。「早く帰りたい」と言えれば、いい旅だったのだろうと思う。甲斐があったと安心できる。名残惜しんで帰る旅行は、気晴らしや交遊等には適しているが少々学びや意義に乏しい。
 20時。歯を磨き、傘の水気も軽く拭き、テントに戻って日記を付ける。雨露に湿ったテントが厭わしかったが、ここまでよくよく天候には恵まれただろう。雨も恵み、どこまで行っても旅しても、その恩恵に注がれることを知る。安堵を授かる。それは学びも意義も乗り越えさせて、形無きものの探求を促す。本来何処かへゆかずとも、全ての人の内側で、その安らかさが横たわっている。学びや意義を探すのをやめ解釈をやめ、只与えられたものを「是」として受け取り吟味する。今日は雨、よく休み、散策にも出た。厭わしくとも享受する。この旅も、残り4、5日。帰路を行くのみ。
 21時、早めに就寝。